当時は間違いなく樺太や千島列島は日本の主権が及んでいた。「氷雪の門」は、北海道稚内市の稚内公園内にある、かつて日本領土だった樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑の名称である。終戦の玉音放送後の樺太。ソ連軍が迫る中、最後まで電話交換手業務を続けた真岡郵便電信局の電話交換手だった9人の乙女の最期を中心に、ソ連による南樺太侵攻の史実に基づく映画ですが…、
終戦後の8月20日、ソ連軍は真岡町への上陸を開始した。志願して職場に留まり、そのために追い詰められた関根律子ら女性交換手達は、各地で市民が次々と殺害される状況を通信で知り、自らも青酸カリによる自決を選んだ。死に際して、両足を紐で固く結んでいる者もいた。
この映画での描写は脚本決定稿には無いそうです。見苦しくない様にとの嗜(たしな)みであろうが、原作には9人のうち1人が「辱めを受けない様にモンペを重ねて二枚穿いき、迅速な行動が取れる様に靴の紐をしっかり紐の結びを確認、と肉親の証言があるほどです。撮影段階ではそれを潤色して撮ったとも考えられるそうだ。9人の乙女の像にも刻まれた「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」が通信最後の言葉であった。
是非、当時の歴史を振り返ってみましょう。史実の言葉を送ったのかも知れない海底通信ケーブルが発見!
ニュース エンタメ・文化
北海道と北方領土つなぐ海底通信ケーブル、ついに発見…専門家ら40人が発掘
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211011-OYT1T50002/?from=yartcl_outbrain1
発掘調査で見つかった海底ケーブル(下)(9日、根室市で)
第2次大戦まで北海道根室市と北方領土の国後島を結んでいた通信用海底ケーブルの中継拠点「根室国後間海底電信線 陸揚 施設」で9日、市などによる調査が行われ、ケーブルの一部が地中から発見された。施設は近く国の登録有形文化財となる見通しで、市はケーブルの一般公開を検討している。
市教育委員会などによると、施設は、1900年に旧逓信省が敷設したケーブルを地下から陸揚げするために建設された。鉄筋コンクリート平屋建ての約20平方メートル。内部の床に開口部が設けられている。戦後、民間に払い下げられて倉庫として使われていたが、2013年、市が土地ごと購入した。
ケーブルは、根室市から国後島を経由して択捉島まで延びていたが、旧ソ連が占領後に切断したという。その後、“切れ端”が海底に沈んでいたとみられるが、施設内や周辺では見つかっていなかった。
この日は、専門家やボランティアなど約40人が、小型重機やスコップを使って発掘を開始。約1時間後、施設周辺の深さ約50センチの地中から、太さ約5・5センチの赤銅色のケーブルを発見した。
国の文化審議会は7月、施設の文化財登録を文部科学相に答申した。調査を指導した北海道博物館の右代啓視学芸員は「北方領土とつながる象徴的な建物で、ケーブルは重要な文化財。無事に見つかってホッとしている。北方領土との交流事業などでの活用も期待される」と語った。
120年以上もの前に日本は通信線を考えていたんですね。今はガスパイプラインがロシアから引かれる?
同じころの日本は国富産業で挙国一致の活動に第一次世界大戦で大正5年(1916年)のベルリン大会は開催中止となったが、大正9年(1920年)のアントワープ大会から再開され初めてオリンピック旗が会場で披露された。この時期は、選手村・マイクロフォンの使用が大正13年(1924年)、冬季大会の開催が同じ年(1924年)に、16日前後の開催期間を昭和3年(1928年)、聖火リレーが昭和11年(1936年)など、現在の大会の基盤となる施策が採用された時期である。
この時期からオリンピックは万博の添え物という扱いから国家の国力を比べる目安として国際社会から認知されるようになり「国を挙げてのメダル争い」が萌芽した。
今年の「俺っち」もメダルを貰っても、どこかの市長がかじって顰蹙を買っていましたが食べられないので興味も沸きませんが、この様子は大正13年(1924年)のパリ大会を描いたイギリス映画『炎のランナー』に詳しい。開催国のほうもオリンピックを国際社会に国力を誇示する一大イベントだと認識するようになりオリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者が現れ、昭和11年(1936年)のベルリン大会では当時のナチス政権は巧みに国威発揚に利用した事はよく知られています。
聖火リレーやオリンピック記録映画の制作などの劇的な演出もこのとき始まった。しかしその後、第二次世界大戦でオリンピックは2度も流会してしまうこととなった。この様に五輪の流会が今回も有れば日本の責任でもあると非難があったかもしれません。
当時の思いも次の記事には敵いません。地震列島日本の痕跡も今年発見されています。
ニュース 科学・IT
1000年前「未知の巨大地震」が発生か、九十九里浜に大津波の跡
https://www.yomiuri.co.jp/science/20210925-OYT1T50201/?from=yartcl_outbrain1
千葉県・房総半島沖で1000年ほど前に未知の巨大地震があり、九十九里浜一帯が大津波に襲われた可能性があると、産業技術総合研究所などのチームが発表した。地震の規模はマグニチュード(M)8・5~8・8で、当時の海岸線から3キロ・メートル前後まで浸水したと推定されるという。
澤井祐紀・同研究所上級主任研究員らが、九十九里浜の3地点142ヵ所を掘削して地層を調べたところ、津波で運ばれた砂や生物の化石などが 堆積 した新旧二つの層が見つかった。
化石の年代測定の結果、新しい層は、江戸時代の1677年か1703年に起きた地震による津波のものと推定された。一方、2地点で確認された古い層は、平安~鎌倉時代の800~1300年頃のもので、該当する記録がないため、未知の地震の津波と判断した。
さらに、当時の地形などをもとにコンピューターで津波を再現したところ、実態がよくわかっていない房総半島沖の海底断層が震源だった可能性も浮上した。
現在の地形だと、同じ規模の地震が発生すれば高さ約5メートルの津波が海岸線に到来するという。房総半島の北には日本原子力発電の東海第二原発(茨城県)がある。同原発は原子力規制委員会の安全審査に合格しているが、規制委は「一般論として、新しい知見が出てくれば扱いを検討することになる」とコメントした。
成果をまとめた論文は、英科学誌ネイチャー・ジオサイエンスに掲載された。
政府の地震調査委員会の平田 直 委員長(東京大名誉教授)の話「日本海溝沿いの房総半島沖では江戸期以外の大地震は知られておらず、重要な報告だ。広域を調査し、震源を特定する研究が必要となる」
最新の計測方法で江戸時代の1677年か1703年に起きた地震による津波のものと推定された。一方、2地点で確認された古い層は、平安~鎌倉時代の800~1300年頃のもので、該当する記録がないため、未知の地震の津波と判断した。内容は現在進行形で当時の被災状況などを、自然災害の我が日本は受ける事がどの様なかえす事が出来るのか考える事と同時に日頃の備えをしておきたい。近々の国際問題としては、中國と近隣諸国が我が日本を取り込もうとしている事も日常の話題として議論して欲しい。
現在の中國が、いずれは我が国が中國の自治区に組み込まれていく前哨戦に為っている様です。日本の安全保障を考える事の必要を考えれば対処しやすい様に憲法改正を議論できない「日本学術会議」や左と言われている人が東京大学を経て入省した外務省(他の省庁の官僚も!)が、しゃしゃり出て「中國では中国人が土地を買えないので日本人も買えません!と何故言わないのだろう?
新聞報道では10年前の3月11日の東日本大震災で記事を採り上げて、巨大地震の記憶を伝えています。産経新聞一面に「あなたに、伝えたい 東日本大震災10年」で、連日報道で読者に記憶を呼び覚ましていました。
「俺っち」も、そこでこのニュースを見逃した方の為に産経新聞と読売新聞の記事で見つけたのでアップして於きました。逆の時系列で今日はニュースから2本を同じ様にアップしました。この等(ら)の新聞は報道姿勢が政治色では右寄り?と言われていますが社会面では日常の現在を当時の被災者が受けた巨大地震を思い掛けて行かなければいけないこと。
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