10年前の3月11日の今日、巨大地震が東北地方を襲った。
今日の産経新聞一面に「あなたに、伝えたい 東日本大震災10年」で読者に記憶を呼び覚ましていました。
本日のネットニュースでも現在の状況を報告。
この事を廻りの方々は認識されていますか?と記憶を喚起して危機管理を問題提起。
そこでこのニュースを見逃した方の為に産経新聞の記事で見つけたのでアップして於きます。
逆の時系列で今日のニュースから8日からの3本を同じ産経新聞からアップしました。
この新聞は「父つぁん」が所帯を持った当時から購読していたので読みやすいし贔屓目(ひいきめ)なのかも知れません。(勿論、新聞の中では一番購読料金が安い!月額3034円)
それぞれの10年、胸に刻み 津波甚大被害の東北沿岸部
https://www.sankei.com/affairs/news/210311/afr2103110020-n1.html
社会 地震・災害 東日本大震災
荒浜で海に向かって手を合わせる鹿又淑恵さん(52、左)。中学・高校の同級生で野蒜出身の岡田和歌子さん(当時42)が亡くなった。「あの日のことを全部思い出してしまう。今日は特別な日です」と話した=11日午前、仙台市若林区の荒浜地区(佐藤徳昭撮影)
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福島県浪江町の請戸地区で、友人の名が刻まれた慰霊碑に触れる漁師の石川忠正さん(69)。漁師仲間3人が津波で行方不明のままだという。「仲間が早く見つかってくくれば。この10年は長いようで短かった」と話した=11日午前、福島県浪江町(松本健吾撮影)
東日本大震災から10年目を迎えた南三陸町震災復興祈念公園にある同町旧防災対策庁舎=11日午前、宮城県南三陸町(桐山弘太撮影)
宮城県内の真言宗智山派の僧侶たちが震災復興祈念公園を慰霊した=11日午前、宮城県南三陸町(桐山弘太撮影)
福島県大熊町大川原地区の復興公営住宅で暮らす村井光さん=11日午前9時52分
東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で甚大な被害の出た岩手、宮城、福島3県の沿岸部では11日、被災者たちがそれぞれの10年を胸に刻んだ。
昨年春、競りが再開した福島県浪江町の請戸漁港。同県南相馬市での避難生活が続く漁師の石川康夫さん(65)は、漁船を前に「(漁港が復旧して)戻ってこられた。無我夢中だった」と10年を振り返る。船や家族は無事だったが、家は流され、原発事故で避難を強いられた。
第1原発が立つ福島県大熊町で、2年前に帰還が始まった大川原地区。震災前は、町内の別の地区にばらばらに住んでおり、あいさつ程度の付き合いの人も多い。復興公営住宅で暮らす村井光さん(71)は「古里は古里。やっぱし帰れて良がった。ただ、まだみんなここの住民になりきれてないんだ」とつぶやいた。
内容は現在進行形で当時の被災者を、その後を追いかけていますが日本国の国会で慰霊祭を当然企画していますが、こちらもその記事をアップしておきます。
いずれは我が国が中國の自治区に組み込まれていく前哨戦に為っている様です。外務省がしゃしゃり出て「中國では中国人が土地を買えないので日本人も買えません!日本では日本人が土地を買えるので中国人も買えます?」所謂、相互主義の論法としてこの様な見解を言って居たようで実に摩訶不思議な話で首を傾げて仕舞います。
命守ったビル 記憶をつなぐ 東日本大震災10年
https://www.sankei.com/affairs/news/210310/afr2103100038-n1.html
社会 地震・災害 東日本大震災
岩手県陸前高田市で被災した米沢祐一さんの娘・多恵ちゃんのお宮参りの家族写真。2011年3月11日午前に撮影された=岩手県陸前高田市(米沢祐一さん提供)
■両親と弟を亡くした岩手県陸前高田市の米沢祐一さん、娘の多恵さん
むき出しの土と灰色のビル、高台へと向かう階段。影踏みのように親子が歩く。東日本大震災の記憶は、しっかりとつないだ手で、ぬくもりとともに、受け継がれる。
ここはかつて、岩手県陸前高田市の中心街だった。いまは「米沢商会」のビル以外、何もない。
平成23(2011)年3月11日。巨大な津波は家も人も、のみこんだ。
「これは死ぬな」
3階建てのビルの屋上。1メートル四方ほどの煙突に米沢祐一さんはしがみついた。地面から14メートルほどの高さがあるはずなのに、足元まで真っ黒な水が迫ってきた。
黒い波は何度も押し寄せた。両親と弟が避難した市民会館の屋根は、水につかって見えなかった。
「みんな死んじゃった」
どれくらいの時間がたっただろう。頬に降りかかる雪を感じた。踏ん張っていた下半身は水につかって濡(ぬ)れていた。震えとしびれ。感覚は失われていった。
「こんなところでは死ねない」
水が引いた頃合いを見計らって煙突から降り、流されてきたポリ袋をかぶった。なんとか生きなければ。津波の恐怖と寒さにおびえながら、一睡もせず夜を明かした。
空が白んできた。目をこらすと、街はがれきに埋もれていた。津波が何もかも、さらっていった。
遠く、ヘリコプターの音が聞こえた。必死に手を振った。屋上にたまった泥に「SOS」と書いた。降下してきたレスキュー隊員に名前を聞かれた。答えることができた。
「米沢さん、大丈夫ですよ。助かりましたよ」
地震のほんの数時間前。米沢さんは幸せなときを過ごしていた。この年の2月8日に生まれた多恵さんのお宮参り。家族で記念写真を撮った。
津波は、梱包(こんぽう)資材を商っていた米沢商会のビルで一緒に働いていた父の節祐(ときすけ)さん=当時(74)、母の静枝さん=同(70)、弟の忍さん=同(38)=の命を奪った。いまは最後の家族写真のなかで、大切に抱きしめられた多恵さんを見守る。
岩手県陸前高田市の米沢祐一さん、多恵ちゃん親子=岩手県陸前高田市(鈴木健児撮影)
岩手県大船渡市の実家に戻っていて難を逃れた妻と多恵さんに再会できたのは5日後だった。
「生きていて、よかった。生きていてくれて、よかった」
震災から10年。
公費でのビル解体を勧められたこともあったが、断った。そして、自費で「震災遺構」として、残すことを決めた。多恵さんに震災を伝えていくために、両親と弟との思い出を忘れないために。
いま、米沢さんは語り部として、ビルを案内しながら、震災を伝えている。
「伝えていくことは生かされた者の、生き残った者の使命だと思う」
震災の1カ月前に生まれた多恵さんは10歳になった。防災の知識や技術を習得した「防災マイスター」として、昨年、陸前高田市に認定された。
去年のクリスマス。プレゼントは一眼レフのカメラだった。ビルにレンズを向け、シャッターを切る。
液晶に灰色のビルが切り取られた。あのビルがまた一枚、記録された。
「お父さんを助けてくれたビルだよね。私も伝えていきたいな」
(大渡美咲)
被災者で未だにこの地に戻れない人が多くいて、すでに非難した地で10年の生活で暮らしている。
その地で土地を購入したり、生活上有らぬ言葉の嫌がらせを受けた人も発生したと聞きます。
それらを乗り越えた人に国はどの様な手助けをしたのでしょうか?
風聞が未だに闊歩している現状でも、フィンランドの「オンカロ」の廃棄物処理を見て小泉純一郎元首相が総理大臣時代は原発推進の立場だったが、東日本大震災を経た2011年夏頃までには「脱原発」を主張するようになっていた。
2013年秋頃からは、講演会等でも盛んに発言するようになり、メディアに頻繁に取り上げられるようになった。この発言を脱原発や反原発を主張するみんなの党代表渡辺喜美や生活の党代表小沢一郎など野党各陣営が歓迎し、10月29日には反原発を掲げる社民党党首吉田忠智と会談まで行った。
2014年2月の東京都知事選では、脱原発を争点に立候補した細川護熙を支援したが、細川は落選した。
2018年1月10日には、自らが顧問を務める民間団体「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」の記者会見で「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」を発表。内容は原発の即時停止を求めるもので、法案への支持を与野党に呼び掛けた。
震災時の民主党菅直人首相は東京工業大学理工学部に入学、一年後に応用物理学科へ進学。在学中は学生運動にのめり込んだ。
東工大の同級生によれば、大学の自治会に入り込んでいた中核派に対して菅は「“イデオロギーでは何も変わらない。現実的な対応をしなければ”」と批判し、15人ほどの組織「全学改革推進会議」を立ち上げて極左系とは違う学生運動を行った。この全学改革推進会議は先鋭化していく全共闘や共産党の支配下にある民青とも異なり、大学寄りの体制側グループでもない第4のグループであった。この集団は200人ほどの組織になったともいわれる。
大学紛争の影響で卒業研究が出来なかったため、紛争が収まった後できちんとやりたいとの自身の意向により一年留年。1970年3月、東京工業大学理工学部応用物理学科を卒業。
学生時代を振り返っても原子炉への理解は無かったと言っても良いのに、さも専門の知識があると現場に乗り込み混乱させて置きながら現在は小泉元首相と手を組んで脱原発の混乱に巻き込んでいる。
冷却水破棄も世界基準では遥かに低いが未だに貯蔵されている。
この現状に安全性が風聞に結びついているとは思わない元首相たちの無能さを感じます。
【東日本大震災 私の10年史】宮城で被災の兵庫の大学生、前へ踏み出す 「もうなかったことにしない」
https://www.sankei.com/affairs/news/210308/afr2103080006-n1.html
社会 地震・災害 東日本大震災
「震災を体験した自分だから伝えられることがあると思えるようになった」と話す澤田穂咲さん=兵庫県西宮市の武庫川女子大学(南雲都撮影)
2歳で水泳を始め、水の中では素の自分でいられる心地よさがあった。だが平成23年3月11日、宮城県石巻市の小学4年生だった澤田穂咲(ほさき)さん(20)をのみ込もうとした「大量の瓦礫(がれき)が浮かんだ黒い水」は慣れ親しんだものではなかった。津波は思い出のつまった自宅を押し流し、大切な水泳仲間や同じ小学校の児童25人の命を奪った。あの日から10年。兵庫県内の大学に通う澤田さんは成人を機に、避けてきた震災と向き合う覚悟を決めた。「私なんかが話をしていいのかと思っていた。でも、私だから話せることもあると思えるようになった」。言葉を選びながら静かに語り始めた。(地主明世)
水泳仲間ら犠牲に
あの日のことは鮮明に覚えている。突然の激しい揺れ。教室に女子児童の泣き声が響いた。迎えに来た母親と歩いて家に帰っていると、どこからか「津波が来るぞ! 逃げろ!」と大声が聞こえ、慌てて学校へ引き返した。足元が水にぬれたかと思うと、一気に勢いが増して濁流に。必死に校舎の階段を駆け上がった。3階から外を見ると1階は水没。「ギリギリだった」
自宅は津波で全壊したため、そのまま学校で避難生活を送った。食事は乾パンとバナナだけ。大人たちは限られた物資を分配しながら、懸命に避難所の運営に当たっていた。それをただ見ていた。「強がっているというか、平気なふりをしていた」
やがて同級生らの訃報が耳に入る。自分よりも早く親が迎えに来た子が犠牲になっていた。同じ水泳教室に通い、いつも一緒だった1つ年下のライバルも津波に奪われた。「実感がなくて…。泣くこともできなかった。『無』でした」
母親から今後についてたずねられたとき、「泳ぎたい」という言葉が口をついた。震災までは、将来の五輪出場を夢見る仲間たちと練習漬けの日々を過ごしていた。「泳いでいるときはすべてを忘れられる。何日も泳げない避難生活に耐えられなかった」
節目の年、気持ちに整理
石巻市に引っ越す小学1年まで過ごした大阪市に戻った。かつて父と母と3人で暮らした街だ。ただ澤田さんが水泳を始めた頃に、父は北アルプスの槍ケ岳で雪崩に巻き込まれて命を落とした。父の記憶はない。
被災者用の公営住宅に母と2人で入居し、以前と同じ小学校に通い始めた。放課後は水泳教室に直行し、夜遅くまで練習に打ち込んだ。宮城での努力が花開き、中学1年で念願の国内のジュニアオリンピック出場を果たす。だが、その後、記録が低迷。「何度もやめようと思ったが、そのたびに亡くなった友達が頭に浮かんだ」。全国大会に出れば宮城時代のコーチや仲間とも再会できる。踏ん張って続け、高校ではインターハイに出場した。
武庫川女子大学に進学するとき、悩んだ末に選手からマネジャーに転向した。「限界は感じても水泳から離れたくなかった。人間関係も含めて、水泳があったから今の私があると思う」
自分を水泳につなぎとめてくれた亡きライバルのことを忘れたことはない。ただ大阪で暮らすようになって、周囲の人に震災体験を語ることはなかった。「何も聞かれなかったし、私も言いたくなかった」。震災に対する温度差を感じることもあった。「被災していない人が震災を話題にしていると、耳をシャットダウンした。知らないふりをして遠ざけてきた」
気持ちに変化が生まれたのは大学に入ってからだ。ボランティア活動で福島を訪れたとき、今も苦しんでいる人たちがいることを知った。教員免許の取得に必要な授業では震災が取り上げられ、防災や避難のあり方について学んだ。あのとき、何ができたのだろうと考えた。「震災を体験した自分だから伝えられることがあるんじゃないか、震災と向き合おうと思えるようになってきた」
背中を押したのは昨年の慰霊登山だ。母親と一緒に槍ケ岳に登り、「『お父さんはいないんだ』と実感して、自然と涙が出た」と振り返る。
10年。20歳。節目のタイミングで気持ちの整理がつき、前に踏み出す勇気が生まれた。「もうなかったことにはしない。そうでないと、亡くなった友達に申し訳ないです」。あの日からのことを少しずつ語っていこうと思う。
民間の人たちの経験が何で国政を担った元首相には理解できずに、「震災を体験した自分だから伝えられることがあると思えるようになった」と話す澤田穂咲さんや多くの人が語る当時の体験や爪の垢でも飲んで貰いたい。
過去の総理大臣の責任を問われても致し方ないのでは?
例えばこの地震の前の小泉、菅政権の対応で原子炉再稼働を揶揄する発言を「父つぁん」は許せないと言います。
日本の官僚が時の政権に忠実なのか省益優先なのかはよく判りませんが、前の通りに、しゃしゃり出て来た小泉純一郎元首相が言っていた言葉に「自民党をぶっ壊す!」との言葉を思い出します。
与党である公明党や出戻り組の二階幹事長。
さらにいろんな党を渡り歩いた小池百合子都知事が自民党の弱点をよく見ているように思えて為らないのは「父つぁん」の杞憂であればと思うのは
「俺っち」だけでは無いと思うけれど?
論法としてこの様な見解を言って居たようで実に摩訶不思議な話で首を傾げて仕舞います。
若者にとって今から未来に続く恐ろしい問題点なのでは?、彼らが東日本大震災を自分の保身にとでも思っているのであれば何とも虚しい!
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