今日は歴史を遡(さかのぼ)って暫(しば)し世情に背を向けてみましょうね?
戦国の世、天下統一に挑んだ織田信長。彼が信頼を置いた数少ない側近のなかに、アフリカ出身の黒人武士・弥助をご存じでしたか?、貴方は如何でしょう?
今回の記事は2本採り上げて於きますね。
日本にはこの様に懐の深いこの様な対応をしている武士も、「父つぁん」もこれ以外にも多くの事例を見つけたり、聞いた事があるよ‼?
Culture
実在した黒人侍「弥助」奴隷から信長の家来になった数奇な人生 海外で映画化も
https://newsphere.jp/culture/yasuke_african_samurai_3/
戦国の世、天下統一に挑んだ織田信長。彼が信頼を置いた数少ない側近のなかに、アフリカ出身の黒人武士・弥助の姿があった。はじめは物珍しさから興味を持った信長だが、実際に面会すると、その知的な人柄と武術に向いた体格に惹かれる。城内に居所を与え武士に登用したほか、非業の最期を遂げた本能寺では、ある重要な最後の任務を弥助に託した。
◆ひと目見ようと、京は大騒ぎ
弥助の出自については詳細な記録がないものの、アフリカ南部・現在のモザンビーク、または北東部のコートジボワール出身とする説が有力だ。少年時代におそらくは奴隷として、アラブ周辺およびインドに移された。インドでは少年兵として使役し、後にイエズス会の宣教師に師事している。その後1579年、宣教団の護衛役として日本に渡ることになる。
二十代半ばにしてその身長は182センチほど、肌の色は墨のようだったとの記録が残っており、当時の日本人にすればたいへん物珍しく感じられたことだろう。京都に到着すると、その姿をひと目見ようと人だかりができ、圧死してしまう人が出るほどの騒ぎだったという。
話題は当然、天下統一に向けて駒を進めていた織田信長の耳に入ることになる。いまでは考えられないことだが、信長は弥助の肌が墨で着色したものだと考え、こすり落とそうとしたという。しかし本来の肌の色だとわかるとすぐに尊敬の念を込め、宴会を開いて彼を歓迎している。数日のうちに信長は宣教団から弥助の身をもらい受けるよう交渉し、まずは道具持ちの座に就かせた。不意の襲撃が絶えなかった当時、体格がよく武術の訓練を積んでいた弥助をボディーガードにしたいという考えがあったようだ。
◆初の外国人侍、誕生
この時までに入国から3年が経ち、弥助は日本語を少し話せるようになっている。アフリカとインドの土産話を信長は多いに楽しみ、二人のあいだに急速に絆が育まれてゆく。こうして弥助は信長の大のお気に入りとなった。
信長は武士の身分(士分)を与え、弥助を外国人としては初の侍に登用した。さらに、わずか数ヶ月のうちに安土桃山城内で居所と使用人を与え、腰刀の帯刀を許している。食事をともにする限られた家臣たちの仲間入りも果たしており、その扱いはまるで家族同然だったとも言われるほどだ。
ボディーガード役を期待された弥助は、実際に一度、信長とともに出陣している。1581年、宿敵・武田信玄の配下にあった伊賀に対し、信長は4万から6万人ほどの軍勢を率い襲撃を仕掛けた。織田軍はこの戦で勝利を収め、その帰路、富士の南側の裾野を行く弥助の姿が現地の人々に目撃されている。
◆重責担った本能寺の変
弥助が自ら戦地へ出向いたのは、伊賀での戦の一度きりだ。瞬く間に信頼を育んだ信長との関係は長くは続かず、予期せぬ幕切れを迎えることになる。
1582年6月、毛利軍と戦っていた豊臣秀吉から応援の要請を受けた信長は、明智光秀に出陣を命じる。信長は自らも30人ほどの家臣を引き連れ、本能寺に宿を取った。ところが21日の早朝、主君であるはずの信長に対して光秀が謀反を起こし、本能寺を急襲する。歴史に名高い本能寺の変だ。
このとき一説では、最期を悟った信長は、行動をともにしていた弥助に対し、最大限の信頼を込めた指令を与える。自らが切腹した後、首が決して敵軍に渡ることのないよう、息子のもとに届けてほしいというのだ。こうして信長が自害し、側近の森蘭丸が介錯すると、その首は弥助に託された。
信長の最後の威信を背負った弥助だが、不幸にも光秀の包囲網を突破することはならず、敵の手に落ちてしまう。ただし光秀が情けをかけたためか、命を取られることはなかった。本能寺の変以降、弥助についての記録は少なく、その後の経緯は明らかではない。一説によると日本のイエズス会のもとに送り返され、国内で余生を過ごしたとも言われている。
◆海外も興味
ここまでが弥助の京都での活躍のあらましだ。信長に初めて呼び立てられてから本能寺の変まではわずか15ヶ月という短さであり、さぞ目まぐるしい日々だったことだろう。遠い異国の地・日本で初めての外国人武士となった弥助を、世界のメディアが取り上げている。
英BBC(1月20日)は、「信長が弥助に士分を与えた当時、日本人ではない武士は存在しなかった」と述べ、弥助の待遇がいかに慣例破りのものであったかを強調している。信長が「弥助の巧みな話術に興味を引かれたのだろう」と見る意見も紹介しており、彼の知的なセンスに信長が心酔していたことをうかがわせる。当時の京都にはほかにも外国人はいたが、布教活動に熱心な宣教師たちが多かった。警護役として連れてこられただけの弥助は純粋な話し相手となり、そのため信長にいたく気に入られたのだろう。
彼の活躍は書籍化されており、その一つに『African Samurai: The True Story of a Legendary Black Warrior in
Feudal Japan』がある。政治や宗教などさまざまな側面を絡めてドラマチックに綴るこの書籍は、米アマゾンで星4.4を獲得するなど好評だ。米CNN(2019年8月11日)は、著者であり日本史を研究しているロックリー・トーマス氏の解説として、「人々は彼の姿を一目見たい、そばに行きたいと躍起になった」と述べている。黒い木像で表現されることの多い大黒天になぞらえ、弥助と出会ったばかりの信長は、彼のことを神の化身だとすら考えていたという。意外性に満ちたストーリーの数々が、弥助人気を呼んでいるようだ。
◆『ブラックパンサー』主演俳優が弥助に?
はるか遠いアフリカから渡来し、信長の最も信頼する家来の一人となった弥助。その知名度は、日本国内でさえ、コアな歴史ファンに知られている程度に留まる。しかし近年、この世界初の外国人武士のストーリーがにわかに脚光を浴びており、映像化されるようになってきた。
現在、ハリウッドで実写映画の企画が進められており、すでにチャドウィック・ボーズマンが弥助役に決定している。ボーズマンは、マーベル世界の一角を成し黒人ヒーローが活躍するアクション作品『ブラックパンサー』で主演を務める人気俳優だ。
主演決定を報じるハリウッド・レポーター誌は、1580年代に日本の戦国武将・織田信長に仕えたアフリカ出身の侍についてのストーリーであり、武士の身分を獲得したアフリカ人として唯一よく知られている人物だと伝えている。主演のボーズマンは、単なるアクション作品ではなく、文化や人々の交流を描いた映画になると述べており、出演にあたり高い意欲を見せている。
◆アニメの原案にも
ネットフリックスでは、アニメ化のプロジェクトが進行中だ。原題『YASUKE』の名で登場予定のこの作品は、忠実な歴史ものというよりは、弥助を題材としたファンタジー作品になる模様だ。浪人となった弥助が邪悪な力に対抗するため、再び刀を握るという概要が予告されている。本能寺の変以降の活躍を想像力たっぷりに描く作品となることだろう。声の出演は、『アトランタ』のキース・スタンフィールドなどだ。製作の途中経過を報じるザ・シングス誌は、現在同作品はプロダクションの初期段階にあり、登場時期は未定だとしている。
弥助の存在はこれまでにも、国内作品を含め、いくつかの映像作品の題材となってきた。今後相次いで映画化・アニメ化となれば、信長を支えた知られざる武士の知名度は飛躍的に高まりそうだ。
この記事は「武漢ウイルス」で世界に脅威をまき散らして居た時の昨年8月に取り挙げられて居たものなので、見逃してしまいそうな処でした。
戦国時代の本能寺の変に別記事では色んな説が有りましたが、本能寺の信長に連れ添っていた弥助の存在は確かなようですね。
当時は自刃(切腹)したとしても敵側の手に信長の首を取られない様にする事が打ち取られた首と同様にどの様な辱めを受けるか当然の策だったと思います。
信長の最も信頼する家来の一人となった弥助。その知名度は、日本国内でさえ、コアな歴史ファンに知られている程度に留まっていましたが、しかし近年、この世界初の外国人武士のストーリーがにわかに脚光を浴びており、映像化される事に決定!
どの様なストーリに為るのか大変興味深い。
この後の記事は築城の外壁である石垣の件です。
お見事!「石垣」に見る戦国時代の驚くべき技術力
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58390
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大坂城 撮影/西股総生
(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
石垣のパターンは6種類
城に興味を持ち始めて最初のうちは、石垣はどれも同じに見えるかもしれません。でも、よく見ると石垣にはいろいろなタイプがあります。石垣の違いと、違いを生み出す原理とがわかるようになると、城造りにおけるイノベーションが見えてきます。
まず、採ってきた石を、そのまま積み上げたものを「野面(のづら)積み」といいます。次に、採ってきた石の表面や、合わせ目になる所を打ち欠いて、ある程度形を整えてから積んだものが「打込みハギ」。さらに、ブロックのように形を四角く整えて積み上げたものを「切込みハギ」と呼びます。かなり整然とした印象になりますね。
それから、大小の石をランダムに積むやり方を「乱(らん)積み」。段ごとに石のサイズをそろえて、横に目地が通るようにしたものを「布(ぬの)積み」と呼びます。これに、先ほどの野面積み・打込みハギ・切込みハギを組み合わせると、6つのパターンができますね。なので、城を歩きながら「これは野面積みで乱積み」「お、打込みハギの布積みだな」などと当てはめてゆくと、知的パズルが楽しめます。
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写真1:野面積み・乱積み。岡山城。一見、乱雑そうだが、石の奥行きを大きくとって奥の方でガッチリかみ合わさっているので、簡単には崩れない。 撮影/西股総生
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写真2:打込みハギ・乱積み。姫路城(兵庫県)。石を打ち欠いて表面を平らに揃えている。 撮影/西股総生
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写真3:打込みハギ・布積み。大坂城。目地が横に通っているのがわかる。石のサイズが揃わないと、こうはならない。 撮影/西股総生
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写真4:切込みハギ・布積み。二条城(京都府)。石をブロックのように整形して、隙間なく積み上げている。加工に手間をかけているのが一目瞭然。 撮影/西股総生
戦国時代、一番強かった石垣は?
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写真5:石垣山城(神奈川県)。豊臣秀吉が1590年に小田原城を包囲した際、突貫工事で築いた石垣。一見雑に見えるが、ランダムに積むことで荷重を均一に分散させている。名人芸のなせる早ワザだ。 撮影/西股総生
さて、戦国まっただ中に築かれた石垣は、たいがい野面積み×乱積みです。何せ、いつ敵が攻めてくるかもわからない時代ですから、城造りも大急ぎ。とにかく使えそうな石をかき集めてきて、片っ端から積むしかありません。これがだんだん打込みハギ・乱積みになってゆきます。
ただし、乱積みが技術的に稚拙かというと、そうともいえないのが面白いところ。というのも、乱積みというのはランダムに積むことで荷重を均一に分散させる積み方だからです。これを実現するには、一つ一つの石の大きさや形を見て、最適の場所に最適の置き方をする名人芸が必要です。
一方、布積みは石の大きさが揃っているわけですから、マニュアル的に積むことができます。とはいえ、切込みハギで布積みにするためには石の加工に手間がかかります。なので、江戸時代に入って、世の中が落ちついてこないと普及しません。
ここが、城造りにおけるイノベーションです。まず、信長や秀吉の頃までは、石工(いしく)たちが名人芸を発揮して石垣を積んでいました。ところが、日本のあちこちで大がかりな城造りが盛んになってくると、名人芸を持った熟練工が不足します。そこで、切り出す段階で石のサイズを規格化します。そうして、築城の現場ではマニュアル的に積めるようにしていったのです。
もう一つ、「算木(さんぎ)積み」という言葉を覚えておきましょう。石垣の角のところを造るのに、角柱形の石を互い違いに組み上げているようにした積み方です。
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写真6:典型的な算木積み。大坂城。巨大な直方体の石を交互に積んでいるのがわかる。現在残る大坂城の石垣は豊臣氏の滅亡後、徳川幕府によって築き直されたもの。
この技術は、秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592〜98)から関ヶ原合戦(1600)の頃に確立しました。これによって、石垣の角部分の強度が飛躍的に向上したのです。と同時に、規格化された石を使って打込みハギ×布積みにする技術も、普及していきました。
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写真7:浜松城(静岡県)に残る野面積みの石垣。写真6の大坂城より30年ほど古い。角の部分が何となく算木積みっぽくなっているのがわかるかな? 撮影/西股総生
何となく、技術のトレンドが見えてきたでしょう? 石切場で石を規格化する生産方式が確立すると、石垣の目地が横に通るようになります。
この技術を応用して、算木積み用の直方体の石をつくれば、石垣の角もきれいに丈夫に組み上がります。こうして、見上げるような鉄壁の石垣を、短期間で積み上げる築城法が確立していったのです。
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おまけ:「石垣クッキー焼いてみました」と、城好き女子からのプレゼント。「思ったより難しかった、次回はもう少しリアルにしたい」とのこと。城の楽しみ方は人それぞれ。あなたも、自分なりの楽しみ方を見つけてみては?
全ての石垣で意味があると言われてビックリ!
石垣のパターンは6種類‼
皆さんも興味を持ち始めて最初のうちは、石垣はどれも同じに見えるかもしれません。でも、よく見ると石垣にはいろいろなタイプがあって、興味深いと思いませんか?
「俺っち」も、こう云う場所に「小母さん」と一緒に見に行って見たい気がしますが、もし「父つぁん」も一緒に行けたら多分蘊蓄(うんちく)を垂れるんじゃ無いのかな?勿論案内をして呉れる人の解説が、もしこの件を解説し忘れたら「父つぁん」の偉そうな笑顔がこぼれるでしょうね。
時代がドンドン進んで居るので人間社会だけが高度化して居る訳が無いじゃ無いか!ほかの生き物もドンドン知恵が付くのが判らない人間の方が可笑しいよ。
川の流れをせき止めて色んな食べ物を採っているダムの堰止めを遣っているビーバーやら他の生き物の変化を感じる事って判って居ないよ?廻りの生活に今の人が我々や他の生物にも機微に触れる事は今の人間には非常に大事だと思います。
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