2020年12月13日日曜日

日本の研究力低下、このまま中國に後れをとってもよいのか

 日本において、昭和55年度【1980年度(狭義では平成14年度以降)】から平成22年代初期まで実施されていたゆとりある学校を目指した教育のことで、この時期に教育を受けた影響が世界の学力テストに顕著に表れて慌てたがそれは何故か?小学年代に基本の知識より、各自が自由闊達に意見を述べる必要を時の文部科学省の捉え方だったようです。

 

思い通りの流れだったのかを検証する事も遣らずに「言い訳」ばかりが聞こえる様に思います。

 

今までの日本がノーベル賞受賞者の多くは若き時の研究成果の評価で得られたことは多くの人に知られています。今後の日本人受賞者が期待されるのか心配なのが、現在の研究発表の減少が中國の多くの発表に比べて無理なのでは無いでしょうか?

掛谷英紀筑波大学准教授のこのまま「中國に後れをとってもよいのか?」という懸念を見ておく事にしたい!。

「日本学術会議」に与したノーベル賞受賞者は居ないのでは無いでしょうか?



  『掛谷英紀』 2019/10/11


日本の研究力低下、このまま中国に後れをとってもよいのか

https://ironna.jp/article/13573

 

掛谷英紀(筑波大学准教授)

 

 現在、大学では運営費交付金の削減、研究論文の本数や引用数の低下、博士課程の定員割れ、博士号取得者の雇用難などが問題になっている。今後、こうした問題が日本の研究力の低下をもたらし、将来的にノーベル賞受賞者を輩出できない国になるのではないかといった議論が盛んに行われている。

 

 これらの問題は、主に理学系、生命系の研究者の関心事である。著者自身は情報系、工学系を専門にしているので、事情は若干異なる。工学分野は企業からの資金援助が受けやすく、また博士号取得者でも企業に就職しやすい。しかし、工学系は工学系で別の問題を抱えていることはあまり知られていない。

 

 そこで、本稿では、最初に現在懸念されている研究力低下の問題に対してデータに基づく分析を行い、次に普段あまり語られていない工学系の研究現場で起きている問題を紹介することにする。

 

 ノーベル賞受賞者数を研究力のバロメーターにするならば、まずは過去の受賞者のデータを見るところから始める必要があるだろう。

 

 本年度、ノーベル化学賞を受賞した旭化成名誉フェローの吉野彰氏(71)までの自然科学分野での日本人(後に外国に帰化した人を含む)ノーベル賞受賞者と、その生年(西暦下2桁)を並べると以下のようになる。

 

06朝永振一郎、07湯川秀樹、18福井謙一、21南部陽一郎、25江崎玲於奈、26小柴昌俊、28下村脩、29赤崎勇、30鈴木章、35根岸英一、35大村智、36白川英樹、38野依良治、39利根川進、40益川敏英、42本庶佑、44小林誠、45大隅良典、48吉野彰 54中村修二、59田中耕一、59梶田隆章、60天野浩、62山中伸弥 ※敬称略

 

 注目すべきは、190718年生まれと194854年生まれの間にある空白である。前者については、研究に最も打ち込める30代に戦争を経験した世代であり、大きな研究成果を得るのは不可能に近かっただろう。一方後者は、その前後の吉野彰氏、中村修二氏、田中耕一氏の3人が博士課程に進んでおらず、いずれも企業における研究成果による受賞であることを考えると、大学の研究という意味では194559年の生まれの間の空白と見ることもできる。

 

 この原因の一つとみられるのが、194749年生まれの団塊の世代が当事者であった70年安保闘争である。左翼学生運動が大学の研究教育活動を妨害し、施設を破壊したことの後遺症が、この知の空白を生んだと考えられる。2013年の平和安全法制制定時も、主に文系の大学教員とごく一部の学生に、大学を拠点に反対運動を盛り上げようとする動きがあったが、そういう政治的動きが大学で過激化、暴徒化することが、研究力の維持に対する最大の脅威の一つであることが分かる。

 



  

電池の模型を手に笑顔の旭化成の吉野彰名誉フェロー=20191010日、東京都千代田区(古厩正樹撮影)

 

 また、当然ながら、これまでのノーベル賞受賞者は、全て1990年代の大学院重点化より前に学生時代を過ごしている。博士課程の定員割れ、博士号取得者の雇用難といった問題は、大学院重点化で大学院の定員を増やしたゆえに起きている現象である。大学院進学者が少なかった時代に多くのノーベル賞受賞者を生んでいること、さらに博士課程に進学していないノーベル賞受賞者も多数輩出されていることを考えると、博士号取得者が計画通り増えないからといって、今後ノーベル賞級の研究ができなくなるという結論にはならない。

 

 著者の専門分野に話を移そう。情報系、工学系では、日本の優位がまだ残っている分野と、日本が完全に後れてしまっている分野がある。まだアドバンテージがあるのはハードウエア分野である。もちろん、ここでも日本の優位性は小さくなっているのは事実である。筆者の専門分野の一つである電子ディスプレイについても、10年前までは日本企業に存在感があったが、民主党政権が超円高政策で日本の製造業に致命的なダメージを与えて以降、産業の中心は韓国、台湾、中国にとって代わられた。

 

 しかし、研究については日本もまだある程度勝負できている。最大の理由は、国内に優良な部品を作れる中小企業がたくさんあることだ。これが、新しい実験装置や試作機を作るのに非常に役立つ。筆者自身、国際会議などで「お前の使っているこの部品はどこで購入できるのか?」と聞かれることがよくある。ハードウエア分野の研究力を維持する上で、日本の国内の中小製造業がもつ技術やノウハウは、今後も大事に守っていく必要がある。

 

 一方、ソフトウエアについては、日本は完全に後れをとっている。今流行の人工知能分野でも、米国勢や中国勢が先行しており、日本は全くついていけていない。筆者の専門分野の一つに人工知能を使った医療画像自動診断があるが、同分野のトップカンファレンスである「MICCAI」でも、昨年の会議における中国、韓国からの参加者数が全体の4位、5位を占める一方、日本はトップ10にも入っていない。

 

 発表件数も全体で300件以上ある中、日本からの発表は筆者を含めて1桁にとどまっている。今年開催された腎臓がんの自動検出の国際コンペにおいても、106の参加チーム中、中国からの参加が半数以上を占めた。トップはドイツチームだったものの、中国チームも多数上位に食い込んでいた。筆者を含む研究グループは、日本からの参加チームの中ではトップだったが、中国の上位勢には及ばない状況である。

 

 今の中国は、人工知能以外でも、宇宙、エネルギー、計算機など、軍事的優位を築くことに資する研究分野に重点的に投資をしている。これまでの米国の戦略と同じである。一方、日本はというと、ご存じの通り、日本学術会議の声明の影響で、多くの主要大学で防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度に学内の教員が応募できない状態である。

 



  

中国のIT企業が展示した人工知能による顔認証技術=201811月、中国浙江省烏鎮(共同)

 

 今関心を集めている自動車の自動運転技術も、米国では米国防高等研究計画局(DARPA)のグランド・チャレンジで、スタンフォード大学、カーネギーメロン大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)などの名門大学が技術を磨いてきた歴史がある。そうした軍事技術の積み上げは、当然民生への応用を考える場合も大きなアドバンテージになる。防衛関係の研究を大学が禁じる日本が、軍事研究に力を注ぐ米国や中国に太刀打ちできないのは当然である。

 

 さらに、中国勢には、もう一つ大きな武器がある。それは、ペナルティーがないなら平気でモラル違反をすることである。例えば、学会では予稿集に論文を投稿しておきながら、学会で発表に来ない「No Show」と呼ばれる行為がある。予稿集が学会後に出版される場合は、No Showの論文は削除されるが、同時出版の場合は削除されずに実績となる。

 

 中国の研究者は、このNo Showを行う確率が非常に高い。また、ポスター発表で、ポスターを貼っただけで何の説明もしない「貼り逃げ」行為もしばしば見られる。実際、私が参加した学会で貼り逃げ行為をカウントしてみたところ、中国の研究グループがその7割を占めた。その学会の中国からのポスターは約35 %であったことを考えると、中国の研究グループは他国のグループに比べ、貼り逃げをする確率が非常に高いことが分かる。最近、中国が論文数を増やしていることがしばしば取り上げられるが、彼らがこうした手段で数を稼いでいることは割り引いて考える必要がある。

 

 中国勢との競争を考える上で、最大の懸念事項は知的財産権の軽視である。筆者が研究室内で企業との共同研究を学会発表する話をしていたとき、ある中国人学生に「この研究は商品化を考えていないのですか?」と質問されたことがある。私が驚いて「商品化を考えないなら企業は研究しない」と答えると、「学会発表してしまったら、盗まれるじゃないですか」と言われた。私が学会発表の前には特許出願をすると説明したが、中国では特許をとっても誰もそれを尊重しないので、企業は学会発表しないというのが彼から聞いた話であった。

 

 もちろん、学会で中国企業の発表を見かけることはある。しかし、その発表内容は結果を自慢する種のものが多く、その技術的詳細に触れるものはほとんどない。われわれ自由主義国の研究者とは、学会発表の捉え方が全く違うことが分かる。

 

 もし、こうした違いがそのまま放置されると、自由主義国からは中国に細かな技術情報が全て開示される一方、中国からは自由主義国に技術情報は伝わらないという非対称な関係が続くことになる。そうした状況下では、技術開発において今後中国がさらなる優位を築くことは間違いない。

 



  

20ヵ国・地域(G20)首脳会議(大阪サミット)デジタル経済に関する首脳特別イベントであいさつする安倍晋三首相(中央)。左から2人目はトランプ米大統領、右から2人目は中国の習近平国家主席=2019628日、大阪市住之江区(代表撮影)

 

 米ソ冷戦では自由主義国が独裁国に勝利したが、そのときは人、モノ、金、情報の往来に制限があった。今、自由主義国と独裁国中国の間では、人、モノ、金が自由に行き交う。そして、情報については自由主義国から中国への一方通行に近い状況である。これでは、独裁国側が圧倒的に有利である。中国の軍事的脅威が現実的なものになる中、米国はトランプ政権になってこの非対称なゲームのルール是正に乗り出した。多くの日本人は、この危機的状況においても鈍感なままだが、米中対立が露見しているこの機会に、自分たちの置かれている立ち位置を考え直してみる必要があるだろう。

 

執筆者

『筑波大システム情報系准教授』



  

掛谷英紀

筑波大システム情報系准教授。昭和45年、大阪府生まれ。東大大学院工学系研究科先端学際工学専攻博士課程修了。通信総合研究所(現情報通信研究機構)研究員を経て現職。専門はメディア工学。 著書に『学問とは何か』(大学教育出版)、『学者のウソ』(ソフトバンク クリエイティブ)など 。近著に『「先見力」の授業』(かんき出版)。

 

記事の様に中國勢との競争を考える上で、最大の懸念事項は知的財産権の軽視である。今迄の世界で発表された論文や研究を盗んだりネット搾取をベースに彼らがそこを土台に中國が積み上げて現在の地盤にしてしまっている!

 

掛谷英紀筑波大学准教授は研究室内で企業との共同研究を学会発表する話をしていたとき、ある中國人学生に「この研究は商品化を考えていないのですか?」と質問されたことがある。私が驚いて「商品化を考えないなら企業は研究しない」と答えると、「学会発表してしまったら、盗まれるじゃないですか」と言われた。准教授が学会発表の前には特許出願をすると説明したが、中國では特許をとっても誰もそれを尊重しないので、企業は学会発表しないというのが彼から聞いた話であった。確かに学と商に長(た)けた国民性が透けて見えます。

 

日本学術会議での会員連中が、日本が世界から取り残されている憂慮を持てない事が現在の「知の停滞」状態を、この原因の一つとみられるのが、過去に遡れば昭和22年から25年(194749年)生まれの団塊の世代が当事者であった70年安保闘争で左側の左翼や新左翼の運動家が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動である。自由民主党など政権側からは、「安保騒動(あんぽそうどう)」の混沌と破壊の責任がどこにあったのでしょうか?

 

参加したのは、日本社会党、日本共産党などの左翼政党、日本労働組合総評議会(総評)などの労働者、日本共産党から分裂した急進派学生らが結成した共産主義者同盟(ブント)と、彼らが主導する全日本学生自治会総連合(全学連)の学生など全学連とある。左翼学生運動が大学の研究教育活動を妨害し、施設を破壊したことの後遺症が、この知の空白を生んだと考えられる。

 

国民の支持を失った左翼系団体のなかには過激化する組織もあり、昭和47年(1972年)に連合赤軍が引き起こした「あさま山荘事件」は有名でしょう。

 

アメリカでは泥沼化したベトナムに対する反戦運動が高まり、フランスでは学生が主導となった五月革命が起きる。中國では文化大革命が熱を帯び、昭和43年(1968年)102日にはメキシコでトラテロコの虐殺が起きた。

 

ベトナムのテト攻勢やワルシャワ条約機構軍によるチェコへの軍事介入(プラハの春)、メキシコオリンピック、西側の高度経済成長などこの時代の社会は大きな興奮と混乱の熱気に包まれていた。

 

全世界的に旧態依然とした権力は同時代的な意識を求める大衆の挑戦を受け、その権力の在り方そのものが問われるようになった。安保闘争もそうした潮流に呼応するかたちで起きた大衆運動の一環であり、それ以後の日本の大衆文化や思考の在り方、意識に消し難い影を投げかけることになった。

 

「日本学術会議」の現在進行形の政府からの選出問題が、どの様な方法で選出されるのかは「父つぁん」が知る由も無い事ですが、維新の馬場氏は「(会議の)構成員の方が『学者の国会』という意識を仮にお持ちであれば、非常に腹立たしい。われわれは選挙という民主的な手続きを経て、国民の代表として国会に送っていただいている」と述べ、「メンバーの選考が民主的な手続きを経ているのかどうかはよく検証する必要がある」との発言は日本学術会議の在り方を指摘している?

 

民主的な組織を構築するには政府から資金(税金の投入)を受け取るのならば我々にも見える様な体制にして貰わなくては納得できない!

 

文中ではこの様な考えを中國としては旨く利用される様に思えて気に為りますが、学術的な研究というジャンルにも契約文書?で中國へ拠点を移して取り込まれて居る事に何も拘束されずに研究の資金と場所の提供に疑問も持たない!

 

国民が納得できるよう「学術会議に関し「国の予算を投じる機関として本来発揮すべき役割をより適切に果たし、国民に理解される存在であるべきだ」と強調した。政府が行政改革の対象としていることも説明した。知識人とは教育者であってGHQと同じ目的を持って、中國は紅衛兵が学者の人達を粛清!

これに依って頭脳階級や集団が居なくなり知識の荒野と為ってしまった。

 

日本の「日本学術会議」で希望通りの組織にするのであれば、自由闊達に別組織で透明で国民に絡まない研究組織にして頑張ればよい!

 

中國や韓国、および世界における学術研究を国からの資金で行うのであれば、国策に寄与する様な研究で受け取れる組織が必要でしょう!

 

在野の趣味から研究する人が自分の満足する様な発表を本で世間に出している。此れが大変面白い!この様な姿勢を「日本学術会議」の会員に徹底させて欲しいもんです。彼らは自己資金で研究していますよ!

 

日本の研究者は甘えが在りはしないか?国策が何であれ、この為に現在の中國が行って居る基礎研究の研究者の枯渇に繋がったとは思いませんか?

当然現在の「千人計画」に繋がる話であって、今後は日本のノーベル賞受賞者が出ない代わりに中國でのノーベル賞受賞者が多く生まれるのでは無いだろうか?



  『倉山満』 2019/10/11


幕末維新の情熱はいずこへ? いつから日本人の頭は悪くなったのか

https://ironna.jp/article/13567

 

倉山満(憲政史家、皇室史学者)

 

 これだから日本人は…。吐き捨てるように使われる枕詞(まくらことば)だ。

 

 曰(いわ)く、島国なので田舎者根性が強くて卑屈だ。曰く、争いごとを好まない性格なので、世界と戦えない。曰く、傑出したリーダーが出てこない。いても潰される。

 

 では、その日本人の性質について、神武創業以来2600年間一貫してそうであったと証明した上で発言しているのであろうか。

 

 島国根性だと言うなら、卑屈さのカケラもないイギリスはどうなのか。世界と戦えないなら、北条時宗はなぜモンゴルに勝ったのか。傑出した指導者など、天武天皇、藤原不比等、源頼朝、北条泰時、足利義教、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康…わが国史では無限に数えられる。

 

 何より、明治維新をやり遂げ、日露戦争に勝利したわれわれの先人たちは、「世界史の奇跡」とさえ呼ばれる。

 

 いわゆる日本人にかかる枕詞は、明治までの日本人には、ほとんど無縁だ。確かに圧倒的多数の国民は“ノンキ”だったかもしれないが、“ノンキ”でいられたのは、危機に際しては“やるときはやる”のが日本人だったからだ。「これだから」の日本人になるのは、日露戦争以後の話なのである。

 

 では、いつから日本人は頭が悪くなったのか。私は二つの答えを用意している。ただ、答えの前に、わが国近代史における教育を振り返りたいと思う。

 

 日本が“ノンキ”でいられなくなった時点は、特定できる。175663年の七年戦争のときだ。七年戦争とは、ヨーロッパの五大国が世界の大国になった戦争である。発端はオーストリアとプロイセンの領土紛争であり、フランスとロシアがオーストリアと結び、イギリスはプロイセンを支援した。五大国の抗争は世界中に飛び火し、1762年9月にイギリスはマニラを占領した。当時のフィリピンはスペインの植民地であり、イギリスはフランスに味方したスペインとも抗争した結果、アジアにも大戦は飛び火したのだった。

 



  

※ゲッティイメージズ

 

 さて、これが日本にとって意味するところは何か。いわゆる「鎖国」が不可能になったということである。17世紀、日本はポルトガルとスペインを締め出し、オランダを長崎の出島に閉じ込めた。彼らヨーロッパの大国は、日本の前になすすべがなかった。日本の軍事力が彼らのそれに上回っていたからだ。

 

 当時のスペイン・ポルトガルとオランダは、三十年戦争で抗争していた。いわば江戸幕府は、三十年戦争にオランダ寄りの中立を示したこととなる。中立を可能にするのは武力である。「鎖国」とは、江戸幕府による武装中立なのである。

 

 1762年のマニラ陥落とは、その武装中立が不可能になったことを意味する。ポルトガルを追い出してから100年以上、江戸幕府は泰平を貪(むさぼ)っていた。軍事力は放棄されたに等しい。それに対してヨーロッパは絶え間なく戦乱を続け、今やアジアにまで進出している。仮にヨーロッパ人が日本に来なかったとしても、タマタマに過ぎない。

 

 現に1808年、フェートン号事件が発生した。ナポレオン戦争の最中、イギリス船がオランダ船を追い回し、長崎を荒らしまわった。これに対し江戸幕府は、水と薪を与えてお引き取り願うばかりだった。

 

 時の将軍は徳川家斉。50年にも及ぶ長期政権を築く。その治世は、17871841年に及ぶ。その間、経済は発展した。しかし、国防努力は何一つなされなかった。「祖法」である「鎖国」にしがみつき、何もしなかったのだ。もはや「鎖国」など不可能であるのはフェートン号事件の一事で明らかだが、幕府の指導者たちは改革を恐れた。平和な時代に国防努力など、敵を作るに決まっている。ならば、国際情勢の現実から目をそらし、安逸を貪る方が安泰だ。経済は絶好調だし、外国から直接侵略されるわけでもない。

 

 1841年、家斉死去の年に改革が始まった。水野忠邦の天保の改革である。隣国の清は、アヘン戦争によりイギリスになぶり者にされていた。一応、江戸幕府の指導者もバカではない。清の次は日本の番だと理解していた。改革、すなわち富国強兵の必要性を自覚していた。そして家斉の死を待った。代替わりの際に権力を握り、その上でできることからやろうとしたのだ。

 

 結果、見事に失敗した。しょせん、水野は官僚である。出自は大名だが、心性は木っ端役人である。既に権力を握っている連中に気を遣い、できること“だけ”やろうとする。日本人基準の「できること」など侵略者には関係ないことを、こういった連中には理解できないのだ。日本を侵略から防ぐのに必要なことをやらねば、殺されるか奴隷にされるだけだ。富国強兵、強い政府を作って税金を集め国の軍隊を作る。ところが、それをやろうとしたら、既得権益層の反発を招く。大名たちは、勝手に年貢をとって自分の軍隊を持ちたい。それを取り上げられるのは真っ平ごめんだ。「それでは日本が滅びる」などという説得だけで、この絶大な既得権益を取り上げられるわけがない。幕府は、そうした大名の上に君臨している。さらに既得権の塊(かたまり)だ。

 

 1853年、ペリーが来るまで何の改革も進まなかった。それどころか、ペリーが来てからも改革は進まなかった。天保の改革、嘉永の改革、安政の改革、文久の改革、慶応の改革…。かけ声はかかるが、本質的には何一つ進まない。延々と議論がされるのが、「参勤交代を緩和すべきだ」「神戸を外国に開国すべきかどうか」だ。いずれも、幕府が滅び、明治政府が外国との交際を始めてみれば、忘れ去られるような話である。ところが、幕末の政治家たちは、「日本を守る」という本質と全く関係のない、これら些末な争点で大真面目に政局を動かしていた。ただ動かしていただけだったが。

 

 ここまで江戸幕府が愚鈍でも、なぜ日本は救われたか。最終的には、正論を押し通す人たちがいたからである。

 

 元治元年1215日(1865年1月)、長州の功山寺で高杉晋作は決起した。たった1人で、3千人の敵に立ち向かう覚悟だった。功山寺決起に、後の元勲たちが駆けつけた。クーデターは成功し、大村益次郎の天才的用兵もあって、長州は幕府との四境戦争(第二次長州征討)を撃退する。

 

 これを見た薩摩の大久保利通は薩長同盟に踏み切り、討幕をやり遂げる。そして、大久保の手によって、富国強兵は成し遂げられた。

 



  

大久保利通

 

 徳川幕閣や旗本八万旗など、幕末維新の危機に何の役にも立たなかった。数百年前の栄光に溺れ、単なる特権階級と化していたからだ。真のエリートではない。真のエリートとは、「己の命よりも責任が重い」と自覚している者である。高杉や大村、そして大久保こそが、真の国を救った真のエリートだった。彼らの受けた教育に注目すべきだろう。

 

 高杉は、吉田松陰の松下村塾の筆頭である。高杉は藩校の「偏差値エリートコース」を捨て、松陰の門を叩いた。松陰の教えは「自分が日本を救うつもりで勉強しろ!」だった。記録に残された松陰を見ると、自分が征夷大将軍になったつもりで勉強し、教え子にも教育している。農民に等しい下級武士の伊藤博文や、足軽の子供の山県有朋に対し、「自分がトップに立ったつもりで勉強しろ!」と説いているのである。そして、自ら実践する。

 

 大村益次郎は、緒方洪庵の適塾の出身である。適塾は医者を養成する私塾だが、原書で西洋の知識を追い求める若者が集まっていた。医学に限らず、あらゆる知識を吸い込み、議論した。住み込みの全寮制。実験と観察、一次資料の考察。ゼミと討論による完全実力制が、適塾の特徴だった。イギリスのイートン校からオックスブリッジのエリート教育と同じことをしていた。

 

 大久保利通は若い頃は郷中教育を受けた。年長者が年少者を指導し、軍事規律のように結束する。大久保は青年期には西郷隆盛らと“自主ゼミ”を開き、いつの日か日本の役に立てる自分になるべく、学びを続けていた。

 

 幕末の最終局面で、高杉が時代を動かし、大久保が正論を通した。それができた土壌は、当時の日本人の少なからずの人たちが「何が正解かを分かっていた」ことがある。

 

 松下村塾や適塾は極端な成功例だが、江戸時代を通じて学問熱は盛んだ。京都には一定数の知識人が常に集まっていた。手紙を通じて、知識人たちは情報をやり取りしていた。負けた側の幕府とて、全員が愚かだったわけではない。幕府や水戸藩は限られた情報(information)から、必死に知見(intelligence)を導き出していた。自分の頭でモノを考えていたのだ。

 

 何より、江戸時代の識字率は、ほぼ100 %である。外国は、平民が白痴でも、一部のエリートが国を支えるのが普通だが、日本は国民全体の平均値が国を支えている。

 

 さて、明治になってどう変わったか。

 

 初等教育(今の小中学校)は整備された。それまで寺子屋で教えていたことを、国が責任を持って文盲を作らない制度にした。義務教育である。大日本帝国の義務教育を受けた日本人は、よほどの例外を除き、読み・書き・計算・愛国心を身に付けていた。

 



  

※ゲッティイメージズ

 

 一方、高等教育は大失敗した。

 

 勘違いしてはならないのは、日露戦争までの栄光は、江戸の教育を受けた人たちが国を指導した賜物である。その人たちですら、日露戦争の勝利で「平和ボケ」した。日本人の頭が悪くなったのは、明治401907)年である。日露戦争勝利の2年後である。なぜ、この年か。

 

 日露戦争の講和であるポーツマス条約が結ばれた時点で、日本はロシアの復讐を恐れていた。こちらは2年の大戦争で弾薬が切れ、国力のすべてを使い果たした。裏切って攻めてきたら、幕末維新以来の努力は水泡に帰す。外交でなんとか時間を稼いだ。

 

 そして、1907年。立て続けに協商が結ばれた。日仏協商、日露協商、英露協商である。日英と露仏は同盟国であり、英仏は既に協商を結んでいる。すなわち、この4カ国が事実上の同盟国となったのだ。仮想敵はドイツ。第一次大戦まで、三国協商はドイツとにらみ合いを続ける。日本だけが安全地帯となった。

 

 ここに緊張の糸が切れた。筆頭元老の2人、伊藤博文と山県有朋が本気の大喧嘩を始めた。伊藤は、デモクラシーの必要性を説く。日清日露戦争に勝つまでは、元老とその傘下の官僚・軍人による指導が必要であった。だが、その課題を達成した以上、民権に移行していくべきであると考え、シビリアンコントロールに着手していく。

 

 それに対して山県は、現実の政党政治家の見識の欠落、特に軍事に対する無知を理由に、むしろ軍や官僚機構の特権を守る方向に走る。これが後の悪名高い、統帥権の独立となる。大正時代は、民権を求める政治家と、特権を守ろうとする官僚の抗争で推移した。それで許された。既に、大日本帝国は世界の誰も滅ぼせない強大な国となっていたのだから。官僚が特権を貪ろうが、国民は民権を謳歌する時代だった。

 

 文官は東京帝国大学法学部出身者が大半であり、陸海軍の将官は陸軍大学校・海軍大学校を卒業した学歴秀才が占めることとなる。学歴秀才とは、採点者が求める正解を答える能力に秀でた者のことである。「一高~東大」「三高~京大」のように、ナンバーズスクールから帝国大学に進む者が自動的にエリートと目されるようになり、同じように陸軍士官学校や海軍兵学校も閉鎖的な世界となった。

 

 自分の頭で考える江戸のインテリジェンスは失われていたが、それでも高校教育における教養と、大学の独自性は存在した。ナンバーズスクールは全寮制であり、共同生活を送るうえで自分の専門外の教養に触れることができた。憲法専攻の学生が文学や工学に最低限の知識があるのは珍しいことではないし、逆もまた然り。

 

 大学も、特色があった。早稲田大は東京専門学校で出発し、政治家とジャーナリストを養成する学校。慶応義塾は、財界人を送り出した。中央大は英吉利法律学校、法政大は東京仏学校が前身である。一橋大や神戸大は、商学部が看板だった。国公立(官学と言われた)でも、北海道大の前身はクラーク博士で有名な札幌農学校であり、農学部が看板大学である。いずれも別に、最初から大学ではない。ただ、やがて大正中期までに、すべて「大学」の看板を掲げ、特色をなくしていく。

 



  

羊ヶ丘展望台にあるクラーク像=札幌市豊平区(松永渉平撮影)

 

 昭和初期の愚かな国策については、贅言(ぜいげん)を要すまい。鼻につくエリート意識の高級官僚や陸海軍の軍人たちは、大日本帝国を滅ぼした。ソ連の片手間の中国の片手間のイギリスの片手間にアメリカへ喧嘩を売るような真似をしない限り、滅びないはずの国だったのに。遥かに困難な状況で、明治維新や日露戦争はやり遂げられた。江戸幕府の腐敗した官僚は駆逐された。ところが昭和期になると、政府と軍の無能な官僚主義によって、国を滅ぼしてしまった。

 

 では、いつの間に無能な官僚が跋扈(ばっこ)したのか。時計の針を、1871(明治4)年に巻き戻す。この年、岩倉具視を団長とする、岩倉遣欧使節団が派遣された。使節は2年に渡り欧米を遊覧し、多額の国費を浪費しながら、何の成果も出せなかった。一方、留守政府は着実に改革を進めて結果を出している。帰国後、完全に主導権を留守政府に奪われた大久保利通は、留守政府の首班である西郷隆盛と抗争し、権力を奪還する。

 

 大久保ら留守政府は、当然のごとく強い風当たりを跳ね返さねばならない。そこに、留学帰りの面々が取り入り、派閥を形成する。自然と、「岩倉使節団の成果は有為の人材が欧米の学問を修めて帰ってきたことにある」と喧伝されるようになる。

 

 最初、東大法学部卒業生は、無試験で高級官僚に任用された。驚くべき特権である。また、大学に残り助教授に昇進した者は、国費で欧米に留学できた。

 

 では、彼らに江戸の若者たちのような知性があったであろうか。たかが1年や2年で帰ってきた岩倉使節団の連中に何ができるか。特に批判すべきは、津田梅子である。5歳でアメリカに留学し、20歳で帰国したときには日本語を忘れていた。何のための留学か。岩倉使節団には5人の女子がいた。年長の二人は早々にホームシックになって帰国。残り3人も、日本の男に飽き足らなくなっていた。ちなみに、津田梅子は生涯独身である。

 

 明治以後、「ではのかみ」が幅を利かせるようになった。学会では、「ドイツでは」「イギリスでは」と、外国の文献の紹介が学問として扱われた。医学のような技術主体の学問は、まだよい。当時は、最新の技術の輸入が、喫緊の課題であった。極端に言えば、何も考えずに、技術だけ覚えればよい。

 

 しかし、歴史や政治のような、極めて人文科学的要素が強い学問でも、「ではのかみ」が幅を利かせる。明治に輸入された実証主義歴史学はドイツから輸入された。明治時代に日本の大学の多くは、ドイツを模範とした。ところが、少しでもドイツの大学を知る者は、「どこをどう真似したら、これがドイツ風なのだ?」と仰天する。少なくとも、「誰も気づかなかった一次史料を探してきて翻刻し、読書感想文を並べると論文が出来上がる」など、ドイツで実証主義と呼ぶ者はいない。

 

 地域研究にしても、そうだ。たとえば、タイの研究をタイ語で始めたのは戦後だ。それまでつまり戦前世代は、英語など洋書のタイ研究をありがたがるだけだった。現地語を読まないのが当然視された。舶来崇拝を通り越して、植民地根性である。こうした欧米の学問を翻訳するだけの学問モドキを、「横のものを縦のものにする」と称した。

 

 政治など、自分が生き残る術である。情報がすべて開示されるなどありえない。現実政治は試験問題とは違うのだ。限られた情報の中で自ら知見を見つけ出さねばならない。

 

 明治の指導者が国の進路を誤らなかったのは、江戸の教育を受けていたからである。明治以降の教育を受けていた昭和世代は、現実には有害無益だった。自分の頭で考えることを放棄した、末路だ。

 

 その起源を求めるなら、岩倉使節団だろう。明治6年から既に、日本人の頭は悪くなっていたとも言える。さて、この病理。今はどうなっているであろうか。

 



  

岩倉具視

 

 これだから日本人は…。が、ようやく100年を超えた。だが、2600年の歴史の中で、たかが100年、誤差の範囲である。

 

 幕末に戻ったつもりで真剣に学ぶべきではないだろうか。

 

執筆者

『憲政史家』



  

倉山満

憲政史家、皇室史学者。昭和48年、香川県生まれ。中央大大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程単位取得退学。在学中から国士舘大学で日本国憲法などの教鞭をとる。帝国憲法を学ぶ倉山塾塾長。YouTubeで主宰する「チャンネルくらら」の番組を配信。著書に『嘘だらけの日英近現代史』(扶桑社)など多数。近著に『ウェストファリア体制』(PHP研究所)。

 憲政史研究者・倉山満の砦

 

明治の指導者が国の進路を誤らなかったのは、江戸の教育を受けていたからである。何より、江戸時代の識字率は、ほぼ100 %である。外国は、平民が白痴でも、一部のエリートが国を支えるのが普通だが、日本は国民全体の平均値が国を支えている。

明治以降の教育を受けていた昭和世代は、現実には有害無益だった。自分の頭で考えることを放棄した、末路だ。

 

その末路に「俺っち」の、今があります。

 


「俺っち」の首に付け文が有るのが判りますか?


何時も「俺っち」に挨拶に来る人が会社の移動で逢えなくなるので感謝のメッセージを首に付けられたことで「父つぁん」に言わせると「俺っち」の文盲の原因は「読み、書き、算盤(そろばん)」が出来ない原因だと言っているのが悔しい!

 

現在の学術会議会員の選定方法が「推薦制」になったのは昭和58年(1983年、中曽根康弘政権の時)のこと

 

それまでは「公選制」だった選定方法が、現在のように学術会議側の推薦(当時は学術研究団体によるもので、平成16年(2004年)に会員によるものに変更)を受け、首相が任命する方式に変えられた。

 

任命拒否をされた教授が記者会見で何が問題なのかが良く判らなかった。

自由に研究を行う体制は資金を国や企業から受けない方が自由に、さらに資金を米国の様に国の組織では無い体制で民間から資金を受ける事で(ボランティアで資金を集めて居る)研究をして居ます。

 

菅義偉首相と菅直人元首相の混同を避ける為には両者のフルネームを言わないと判らないので以後は「父つぁん」としては苗字と名前を記載する様にしますね。

 

学問や政治など考えれば、自分が生き残る術である。情報がすべて開示されるなどありえない。現実政治は試験問題とは違うのだ。

 

限られた情報の中で自ら知見を見つけ出さねばならない。世界から瞬く間に安倍首相の業績や気遣うコメントが寄せられて如何に日本だけではなく世界の各界では安倍首相の評価が良いと思いますが、国内では他の野党に阿保な議員が居るものです!

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