日本の領土問題で隣国と言われている三ヵ国が島々で尖閣諸島、竹島、北方領土と言われていますね。
現在進行形で交渉している北方領土問題を採り上げて見たい‼
当時のソ連とその後のロシアに受け継がれたKGB出身の現在の長期政権をウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領が長期政権を維持しているが、歴史的な経緯を見ると実に難しい問題です。
交渉している条件や歴史的な変遷を我々はあまり知らない事も多いに問題です。
2019.09.16:2019.09.18
北方領土とは?歴史や名前を地図で簡単に解説!
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皆さんは、「北方領土」と聞いて、すべての島の名前を思い浮かべることが出来ますか。
北海道の東の端、根室沖にある択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)諸島のことですよね。
日本はロシアに対し、これらの島の領有権を半世紀に渡って主張してきましたが、未だ解決には至って居ません。
しかし、2018年11月、安倍首相が日露首脳会談後に「日露間の平和条約交渉を加速していく」「領土問題は私とプーチン大統領の手で終止符を打つ」などと述べたことで、今、領土問題の行方に注目が集まっています。
そこで今回は、上記の島々が北方領土と呼ばれるようになった歴史を、地図を用いながら解説していきたいと思います。
北方領土(北方四島)はどこの島のこと?
日本が主張する「北方領土(北方四島とも呼ぶ)」は、国際的な地図上ではクルリ諸島(千島列島)の南端に位置する4つの島々の事を差します。
日本の地図
日本の小中学生が用いる帝国書院の地図帳では、以下の図のように択捉島とウルップ島との間に国境のラインが引かれています。
日本製のあらゆる地図がこのようになっているため、日本人の多くが「北方四島は北海道の一部であり、日本の領土である」と感じるのは自然なことかもしれません。
ところが、世界的に有名なアメリカ製の百科事典やオックスホード大学出版の地図帳では、国後島の西側に国境ラインが引かれているのです。
他国の地図
なぜ2種類の地図が存在するのでしょうか。
そこで、1つ目の地図のように、日本が「北方四島は日本の領土だ」都主張する様になった歴史を振り返ってみましょう。
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日本とロシアによる千島列島奪い合いの歴史とは!?
ここ150年ほどの間で、千島列島(国際的にはクルリ諸島と呼ぶ)における日本とロシアの国境ラインは何度も入れ替わってきました。
その変遷を、年代や条約と共に振り返ってみましょう。
北方領土の地図
簡単な年表
年代 概要 国境(樺太) 国境(千島列島)
18世紀前半 クルリ諸島 あいまい あいまい
18世紀後半 蝦夷地と呼ばれる ⇧ ⇧
1789年 クナシリ・メナシの蜂起が勃発 ⇧ ⇧
1855年 国境ラインが明確になった(下田条約) あいまい 得撫島と択捉島
の間に国境
1869年 蝦夷地から千島国へ ⇧ ⇧
1875年 サンクトペテルブルク条約
(樺太千島交換条約) ロシア 全部が日本
1905年 日露戦争で樺太を日本が侵略日本の領土に 日本 全部が日本
1905年 ポーツマス条約で樺太の
北緯50度線以北をロシアに返還 日本 全部が日本
1941年 太平洋戦争の中で日ソ中立条約 半分半分 全部が日本
1945年 日ソ中立条約を破棄、ロシアとの戦い
負ける、樺太も千島列島も、
ソ連に占領される。 ロシア ロシア
1951年 サンフランシスコ平和条約
千島列島、南樺太の権利、
権限及び請求権の放棄 ロシア ロシア
・18世紀前半
鎖国のベールに包まれた日本に対し、ヨーロッパ諸国は、カムチャッカ半島から北海道まで含めた辺りをざっくりと「クルリ諸島」と呼んでいました。
・18世紀後半
当時の日本人(和人)は、アイヌ民族が住む北の大地を「異民族の土地」という意味の「蝦夷地」と呼び、どんどんその勢力範囲を拡大していきます。
1789年には、現在の北方領土の辺りを生活の拠点としていたアイヌの人々が、松前藩による圧政に苦しめられたことで、蜂起する事件(クナシリ・メナシの蜂起)も起こりました。
この頃になると、ロシアと日本による千島列島への進出が進んだこともあり、ヨーロッパ諸国による「クルリ諸島」の認識は、カムチャッカ半島より南~国後島までの間の島々のみを指すように変化します。
そして1853年、浦賀にペリーの黒船が現われ開国を迫ったのを見て焦ったロシアは、これまであいまいにしていた千島列島の国境ラインを明確にする条約を結ぶことになりました。
それが、下田条約です。
・1855年:下田条約(日露通好条約)
日本とロシアの間で初めて結ばれたこの通好条約によって、千島列島のウルップ島と択捉島の間にはっきりと国境ラインが引かれました。
実際、択捉島付近(クルリ諸島南部)に住んでいたアイヌ民族は北海道系アイヌ民族と同族であり、クリル諸島北部に住んでいたアイヌ民族はカムチャッカ半島系のアイヌ民族だったようなので、妥当な線引きだと思われます。
※なお、樺太に関しては、この条約では国境ラインはあいまいなままでした。
しかし、当時のロシアと日本では言葉の壁が大きく、条約の詳細を詰める過程において、オランダ語や漢文まで用いながら何度も翻訳が繰り返されました。
その結果、ロシア側の「択捉島より北にあるその他のクリル諸島(あくまでもカムチャッカから国後までがクリル諸島と言う認識)」という原文が、「択捉島より北のクリル諸島」という風に誤訳されてしまったのです。
どうやら、この下田条約が、北方領土問題の一因になっているのかもしれません。
日魯通好条約
日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効支配を確立しました。19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識して居ました。日露両国は、1855年、日魯通好条約において、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。
出典:外務省HP
・1869年
日本側は、ついに蝦夷地という名前を北海道に改め、国後島と択捉島を「千島国」とします。
・1875年:サンクトペテルブルク条約(樺太千島交換条約)
これまで両国が共存していた樺太をロシアの領土とする代わりに、千島国より上の残りのクリル諸島の島々全てを日本の領土にする条約が結ばれました。
翌年、日本はカムチャッカ半島より南のクリル半島の島々を全てまとめて「千島国」とします。
樺太千島交換条約(1875年)
日本は、樺太千島交換条約により、千島列島(=この条約で列挙されたシュムシュ島(千島列島最北の島)からウルップ島までの18島)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。
出典:外務省HP
・1905年
ポーツマス条約で樺太の北部がロシア領、南部が日本領になる。
ポーツマス条約(1905年)
日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北緯50度以南の部分を譲り受けました。
出典:外務省HP
・1941年
太平洋戦争の中で、利害が一致した日本とロシアの間に「日ソ中立条約」が結ばれる。
・1945年
ソ連は「日ソ中立条約」を破棄し、対日参戦し、日本は敗戦します。
樺太も千島列島も、ソ連に占領されてしまったのです。
・1951年:サンフランシスコ平和条約
戦争後の処理として、領土の線引きをするのは通常のことですが、米ソの冷戦の影響で、平和条約の締結がこの時期まで伸びてしまいました。
そのため、このサンフランシスコ平和条約は、日本と戦った連合国との間で締結されました。
この条約の北方領土に関する条文は下記です。
第二章 領域 第二条(c)(和訳原文)
日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する。
となっていますが、この条約を結ぶ際、アメリカ・ロシア・日本の主張が以下の様に微妙に異なっていたのです。
※アメリカ「歯舞諸島はクリル諸島(千島列島)には含まないという見解デス…」
※ロシア「南樺太もクリル諸島(カムチャッカ~国後まで全部)もロシア(当時はソ連)のものデース!」
※日本「択捉や国後は開国当初は日本領(千島国)だったよね?北の方の千島列島はともかく色丹島も歯舞島も北海道の一部だよね…??」(ポーツマス条約の前に下田条約でウップル島と択捉島の間に国境が引かれたから。)
※ソ連はこの条約には参加していないにも関わらずこの様な強い主張をしていたのは、「1945年2月のヤルタ協定」でソ連の領土をクリル諸島全域と決めていたことを根拠としています。
こうして、千島列島南部の領有権があいまいのまま条約が締結されたことで、日本では「四島返還論」が巻き起こりました。
そして、「北方領土問題」として、今日まで日本とロシアの主張は平行線をたどることになるのです。
日本の主張
サンフランシスコ平和条約(1951年9月)
日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。
出典:外務省HP
まとめ
こうして歴史を振り返ると、勘違いや思い込みでコトを進めると大変なことになるなあと感じます。
日本は「古くは下田条約の時代から北方四島は我が領土だ」と思いこんでいるし、ロシアは「敗戦した日本はサンフランシスコ平和条約でクルリ諸島(千島列島)全域を破棄したじゃないか」と参加していないことを棚に上げて主張しているわけです。
結局、戦後70年たった今でも日本とロシアの間では平和条約すら結ばれておらず、それがまたこの問題の難しさを物語っています。
ただ、もともとはクルリ諸島(千島列島)って日本のものでもロシアのものでもなく、アイヌ民族の人々が暮らす国だったのではないでしょうか。
両国から侵略されチリジリになってしまったアイヌ民族の気持ちにも思いを馳せながら、この問題の決着を、死ぬまでにはみてみたいものです。
日本の主張は戦後の外務省の責任も大きい。
何故他国の様に事実を外務省として発言や最近のネットを利用した情報公開を遣らなかったのか。
日本の利益を確保する事より相手国を怒らせない事に邁進して居た様では「外務省は不磨殿」と言った大臣が居ましたがその通り。
165年前の当時のロシアと結んだ下田条約から実に色んな変遷をたどって所在が変わった事から解きほぐして行かなければ為らない。
一朝一夕(いっちょういっせき)には事が運びません。この記事もその様な歴史を捉えて相手であるロシアからソ連、そして今のロシアへと変わった。
本当にその様な国が日本に譲歩するには戦後のサンフランシスコ条約の中で本当に当時のあやふやな理解をとぎほぐせる事は出来るのでしょうか?
ロシア人の気質は「父つぁん」が度々取り上げている孔子の直系子孫である孔健氏が日本で出版した講談社の「日本人は永遠に中國人を理解できない」でも説明して居ましたが、その中で「約束は破る為にある」という説明があった事を面白く読んだ記憶が有ります。逆に約束した事を反故にする事と逆に約束した事を強く認識している裏っ返しだと思いますがどの様に理解しますか?
この様な中國と同じ共産主義を経験したロシアにも言えると思う。「日ソ中立条約」も欺くための条約に思えます。
北方領土問題でもプーチン大統領は「のらりくらり」と引き延ばして居ますが、閣僚の言葉は「北方4島とアリューシャン列島?」をロシアのものと認める様に釘を刺して居ますが、その時その時の状況に合わせて中國同様に変えて来るのでしょう。それから交渉しようと言うのはどの様な展開を考えて居るのでしょうか?
交渉相手のロシアは未だに平和条約を結べていないとロシアが注意喚起して居ます。
今の中國同様日本に対しては武力開発で違う形で覇権奪取を狙って居る国なのでどうしても日本の敗戦後の状態からサンフランシスコ条約にサインをしていないのにカイロ密約を盾に自国の領土であることから始めたい。
この様にロシアは、経済よりも軍事拡大に邁進と経済成長よりも先進軍備増強に邁進して居る国です。
最近の発表では巡航ミサイルでマッハ8の開発及び実験に成功したという記事も見ました。
「俺っち」としてはこの問題を聞いて、中國が「武漢ウイルス」を沈静化したと言って居ますが、中國同様ロシアも世界から威圧的な軍備疑念を持たれる発表を次々に発表、鵜呑みにして居ない事をどの様に理解して居るのか?
しかもワクチン開発で中國同様に他国の開発を気に為るので情報を窃取する事が暴かれて、遅れるなと世界に先んじる事に邁進中、ロシアも化学兵器としての知見を中國同様に研究して居るので、中國同様ネット上でサイバー攻撃と窃取を実行して居るらしい、もしこれが成功すれば中國同様に世界に恩を着せる事を厭わないだろうね?
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