日本学術会議問題は日本では任命拒否を左派メディアと野党の追及ばかりを我々が見せられて居ますが米国では科学者の対応にかなり神経質になって居るのが判ります!
従来通りの任命容認をしなかった事に疑念を呈して居ます。管義偉首相の任命拒否に学者の意見もこの後に掲載して於きます。矢張りいろいろ言われて居ますね。
的場 昭弘 : 哲学者、経済学者、神奈川大学教授の考えは「父つぁん」とは相いれない意見ですがこの様な考えが日本学術会議の総意なのかもしれません。
以前の記事は産業(経済)スパイとして中國の「千人計画」に応募?した中國の研究者が「親の世話をする」と称して会社を辞め、中國に帰国する前にスパイ行為に及んだ。中國で電池材料を供給する企業に就職する予定だったというこの問題は米国や世界の諸国で行って居るのを米国だけが捜索や懸念が自国にも及んで居ると認識しない方が不思議である。
日本の「日本学術会議」にも繋がる話で菅義偉首相の任命拒否賛否に我々も多くの問題を認識させる事に為りましたね。不毛な論議では無く野党や与党の攻防をシッカリ情報機関であるメディアも論点を外さずに見せて欲しいと思うよ。
1983年の中曽根康弘政権時に「日本学術会議」での任命は追認すると言って居たそうなので時代の変化も考慮して任命権を国に戻すことをしなくては行けないだろう?
菅義偉首相と菅直人元首相の混同を避ける為には両者のフルネームを言わないと判らないので以後は「父つぁん」としては苗字と名前を記載する様にしますね。
政治・経済 国内政治
「学問の自由」がいつも破られる歴史的理由
研究と国家権力との危険な関係は常に存在する
https://toyokeizai.net/articles/-/382214
的場 昭弘 : 哲学者、経済学者、神奈川大学教授
日本学術会議の会員任命問題を機に「学問の自由」とは何かが改めてクローズアップされている(写真:時事通信フォト)
日本学術会議の会員の任命を、政府が一部拒否した事件が大きく報道されている。確かにこれは学問の自由にとって重大な問題である。とはいえ、学問の自由などというものは、人類の歴史の中でも、極めてまれであったことも確かである。
それは学問の歴史や大学の歴史を見ればわかる。現在残存する西洋の多くの大学は、その時代の権力につねに歩み寄っていたからこそ、残っているともいえる。学問の真理に殉じたイタリアの哲学者であるジョルダーノ・ブルーノ(1548~1600年)や科学者であるガリレオ・ガリレイ(1564~1642年)の例はまことに美しいが、それはまれとしか言いようがないことも確かである。
学問の自由は、命を賭けた闘争であり、つねに破られるために存在しているにすぎないからである。
福沢諭吉が唱えた「雁奴になれ」
かつて福澤諭吉は、中国の故事にならって「雁奴」を説いた。学者やジャーナリストは、この「雁奴」になれというのだ。「雁奴」とは、鴈の中で一人群れを離れている風変わりな雁である。彼は仲間が起きているとき寝て、仲間が寝ているとき起きている。それはなぜか。敵が来ることを仲間に知らせるためである。学者やジャーナリストの存在意義は、まさにそうしたところにあるのだ。だから、政府や国家権力に取り入る学者やジャーナリストは、雁奴ではない。
産官学という言葉が定着して久しい。筆者の若い頃は、多くの研究者は産官学に反対したものだが、今ではそういうものも少なくなった。とりわけ自然科学分野において巨額の資金を必要とする研究が、一般化したからである。その最も有名なものが、アメリカの原爆製造のマンハッタン計画かもしれない。国家のため、企業のため、いや自らの名誉と金のため、今では国家や企業に資金を求めるのが一般化している。世間もそれを大学のランキングの中で評価し、むしろそういう傾向をあおっている。
しかしここで注意してほしいが、こうした資金には必ず出した側の目的があるということだ。その意味では、学問の自由は金をもらった時点ですでに存在しない。企業や国家の論理の中に組み込まれ、彼らの論理に服さねばならないからだ。日本学術会議や日本学士院のみならず、大学は、国立大学であろうと、私立大学であろうと、すでにこうした資金がなくては何もできない状態になっていることは確かだ。
もちろんそれが一概に悪いわけではない。こうした資金によって研究が急速に発展し、社会に貢献できるようになったことも確かだからである。しかし何事にも表と裏がある。お金を出す者は、口も出す。あれやこれやと条件が付けられる。自由にものをいうには、金をもらわないに限る。ほかで稼いで研究に使えばいい。しかし、そうした気概がある者がわずかであれば、資金提供者のいいなりになることになる。こうして大学から、次第に自由な研究が消えていった。
戦前の日本を振り返ると、最初に攻撃の対象となったものは、文系、それも社会科学のマルクス主義者であった。しかし、この時多くの大学はこの弾圧を当然のこととして容認してしまった。その結果、マルクス主義者の後には、自由主義者の追放が続いた。そして大学には、国家神道や愛国主義を掲げる国家主義者だけが残った。
昭和11(1936)年に文部省によって創設された「日本諸学振興委員会」の設立趣旨には、こう書かれている。「日本諸学振興委員会は国体、日本精神の本義に基づき、わが国諸学の発展信仰に貢献し、延べて教育の刷新に資する目的をもって昭和11年9月8日文部省訓令による規程に基づき設置されたもので」あると。
学問が、そうした国体と日本精神に基づかねばならなくなったのである。これらが当時の軍国主義国家に利用されたのは、当然だ。そこに居並ぶ学者たちの多く、そしてその学問的成果は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであったのだが、戦後その多くは消え、今や顧みられることさえない。
軍国主義国家への利用を戦後反省したが……
戦後こうしたことを反省し、わが国の学問は権力からの自由を目指して再スタートしたのであるが、戦後の冷戦下、軍事競争や経済競争の下、国家戦略に巻き込まれていく。
いつの時代も、今がどんな時代であるかをその渦中で確かめることは難しい。かつて旧ソ連のスターリン(1878~1953年)による大粛清の最中、トロツキー(1879~1940年)はフランス革命の歴史に触れ、ロベスピエール(1758~94年)の粛清とスターリンの粛清を比較しながら、フランス革命でいえば、今ソ連はどのあたりにいるのかと自問していた。しかしそのトロツキーも、事態の進展具合を見抜けず、結局失脚し、メキシコで暗殺される。
では、令和の今、われわれはどの地点にいるのだろうか。戦後の誓いが大きく揺れ始めたのは、戦中派が大学を退いていく1980年代後半からである。
そのころ、新自由主義が台頭し、ソ連・東欧が崩壊していく。マルクス主義研究者が転向しはじめ、大学の大綱化が始まり、戦後の学問の中枢を占めていたいわゆる左翼の講座が、大学から消えていく。もちろん戦前のように暴力的ではなく、きわめて合理的に、現代の趨勢に適応しなくなったからと説明されて、消えていく。講座がなくなれば大学院生もいなくなり、研究者も消える。そしてIT化とともに、コンピュータオタクの研究者の登場である。
学問的議論が大学でも学会でも消えていき、どんなコンピュータソフトがいいかという議論が活発化する。いわゆる学問における「イデオロギーの終焉」である。そしてソフトのわかる重宝な学者たちが、学会や大学の主要な位置を占め始める。大学も学界も政治問題に口を挟むことを避けるようになる。科研費(科学研究費助成事業)や文部省の助成金などが、そうした環境を破壊していったのだ。
それと同時に、大学の研究者がマスコミで取り上げられることも、めっきりと減る。学者のほうにも責任はある。政治的、経済的な問題に関して発言を慎むようになったからである。毎年開かれる学会においても、社会に対する発言はどんどん減少していき、重箱の隅をつつくだけの趣味的研究、人畜無害の研究が発展する。
不思議にも、それに対して科研費がどんどん出るから、ますますその傾向は強まる。自由主義的学者たちはそれを歓迎し、資本主義は永遠であり、「歴史は終わった」と能天気なことを語り、わが世の春を謳歌し始めた。
ところが、リーマンショックのころから事態は急変していく。資本主義の危機が再燃したことでグローバリゼーションは崩壊し、各国で偏狭な保護主義的思想が台頭し始める。そうなると自由主義的グローバリストでさえ、胡散臭いものとなってくる。冷戦下のような国家間の緊張関係が出てくると、研究者にも再び「日本精神」なるものが次第に要求されるようになる。
じっと見ているか、それとも命をかけて闘うか
マルキストのような明らかな国際主義者でなくとも、ごく普通の自由主義者も次第に煙たがられるようになってくる。しかし、これもはっきりと暴力的に行われるものではない。マスコミの論調の変化、流行の学問の変化という形式の中で進んでいくものとなる。学問の自由どころか、大学の自治も次第に変容していく。
しかしこうした事態は、なにも今初めて起こったものではない。いつの時代にもあったもので、特別なものではない。ただ問題は、これに対してじっと見ているか、それとも命をかけて闘うかである。
レジスタンス運動でナチスに処刑されたフランスの歴史学者であるマルク・ブロック(1886~1944年)が、一緒につかまって処刑される少年に「銃で撃たれることは怖いことなのでしょうか」と聞かれて、こう答えた。「いや、怖いと思うからいけない。怖いと思ってはいけないのだ」と。
学問の自由は、怖いと思うことによってどんどん後退していく。これは学問だけでなくすべてにおいてそうだ。だから怖いと思わず、正しいことを言うべきなのだ。もちろん研究費や、仕事も失うかもしれない。しかし、戦前に戻らないためには、その勇気が必要だ。
今われわれは、戦前の歴史でいえば、いったいどのあたりにいるのであろうか。昭和5(1930)年か、昭和10(1935)年か、それとも昭和15(1940)年か。しかし、今の状態に目をそらしてはならない。必ず学問を権力に利用するものがいるからだ。理性的歴史などありえないのだ。
的場 昭弘(まとば あきひろ)Akihiro Matoba
哲学者、経済学者、神奈川大学教授
1952年宮崎県生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了、経済学博士。日本を代表するマルクス研究者。著書に『超訳「資本論」』全3巻(祥伝社新書)、『一週間de資本論』(NHK出版)、『マルクスだったらこう考える』『ネオ共産主義論』(以上光文社新書)、『未完のマルクス』(平凡社)、『マルクスに誘われて』、(亜紀書房)。訳書にカール・マルクス『新訳
共産党宣言』(作品社)、ジャック・アタリ『世界精神マルクス』(藤原書店)など多数。
日本学術会議での会員がどの様な方法で選出されるのかは「父つぁん」が知る由も無い事ですが、「的場
昭弘 神奈川大学教授」の発言は日本学術会議の考え方を代弁して居るのでしょうか?
文中ではこの様な考えを中國としては旨く利用される様に思えて気に為りますが、哲学というジャンルにも教鞭をとって居るのであれば反論が何時もの通り悪意ある中傷と反論は学生として聞いて居る場合は非常に容易(たやす)く洗脳されるでしょう。
研究に掛かる費用を国が出資するのであればご意見通り、国としての意見も聞く必要がある事に為りますね。
戦後GHQの日本解体の方針で日本学術会議を創設したとされるのを考えると、当時の日本における学者とされる多くの学者が放追された。
どの様な人たちでしょうか?
中國の文化大革命(1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた、中国共産党中央委員会主席毛沢東主導による文化改革運動を装った毛沢東の奪権運動、政治闘争である。全称は無産階級文化大革命、略称は文革)で毛沢東を支持する学生運動グループがつくられ、清華大学附属中学(日本の高校に相当)で回族(イスラム教を信仰する中国の少数民族)の張承志によって紅衛兵を組織し命名された。
毛沢東の腹心の林彪共産党副主席は指示を受け、紅衛兵に「反革命勢力」の批判や打倒を扇動した。実権派や、その支持者と見なされた中國共産党の幹部、知識人、旧地主の子孫など、反革命分子と定義された層はすべて熱狂した紅衛兵の攻撃と迫害の対象となり、組織的・暴力的な吊るし上げと共に歴史的建造物破壊や貴重な文献が失われてしまい、蛮行が中國全土で横行した。
知識人とは教育者であってGHQと同じ目的を持って、紅衛兵が学者の人達を粛清!
これに依って頭脳階級や集団が居なくなり知識の荒野と為ってしまった。
この為に現在の中國が行って居る基礎研究の研究者の枯渇に繋がった。
当然現在の「千人計画」に繋がる話であって、今後は日本のノーベル賞受賞者が出ない代わりに中国でのノーベル賞受賞者が多く生まれるのでは無いだろうか?
日本の学術会議会員の選定方法が「推薦制」になったのは昭和58年(1983年、中曽根康弘政権の時)のこと。
それまでは「公選制」だった選定方法が、現在のように学術会議側の推薦(当時は学術研究団体によるもので、平成16年(2004年)に会員によるものに変更)を受け、首相が任命する方式に変えられた。
当時の政府は「立候補者数の減少」など「学者の学術会議離れ」をその理由にあげていたが、当時の国会では、この「推薦制」に反対する声も野党側からあがっていた。当時も政府内に学術会議に対する批判的な目線があったことから、今回のような「恣意的な人事介入」を懸念していたのだ。
「俺っち」がこの話を聞いて「父つぁん」共々左の政権では無い安倍晋三前首相とそれを受け継いだ菅義偉首相誕生で少しは安堵しました。
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