日本の変質が此処まで進んで居るのか?「Business Journal」で南青山「100億円」児童相談所建設に住民から「土地の価値下げないで」「騒音公害」と反対!、もこの脈絡で聞いた事があります。
https://biz-journal.jp/2018/12/post_25971.html
日本人は縄文時代から稲作農耕で、狩猟民族では無かった。
共同で力を合わせて生活を営みさらに現在は育メンと言って男性の産後休暇を取って頑張って居る企業内規約を行使する若い男性もあって、若いお父さんは自分の子供と一緒に遊んだり球技に休暇を取って仲間に入っている風景を土日の公園で当たり前に見掛ける事が多くなったと「父つぁん」も近所の公園で元気に声を掛け合って居るのを見ています。これ自体は微笑ましい風景で何も悪いことでは無いと思いますが?
日本では五人組(ごにんぐみ)と言われた扶助組織が江戸時代に領主の命令によって作られた近隣保安制度もあり、武士の間にも軍事目的の五人組が作られたが、下層生活者の百姓・町人のものが一般的である。五人与(ぐみ)・五人組合などとも呼ばれていましたが、戦前戦後に「向こう三軒、両隣」と言って町内の協力体制が暗黙の約束で助け合っていたのに何時頃から崩れて消えたのかな?
昔の日本にも助け合うという、この協力精神を持って居た事を現在にも復活して欲しいものですね。
河崎 環 2019/02/24 06:15
日本がここまで子供嫌いの国になった理由
https://president.jp/articles/-/27759
© PRESIDENT Online ※写真はイメージです(写真=iStock.com/kohei_hara)
今年も認可保育園の入園可否が届く季節になった。SNSには、落選した保護者からの嘆きの声も。待機児童問題は依然として深刻な状況だ。働きたくても働けない苦しむ親がいる一方で、保育園の建設計画を良く思わない人もいる。なぜ日本社会は、こうも子どもに冷たいのだろうか。
気の合う友人が見せた衝撃的な一面
センスのいい、素敵な友人だ。年も近く趣味も合うし、彼女のキャリアを尊敬している。その女性が、気の置けない友人たちとの会話が深まり酔いも回る中、目の前でそれはもしかしてNIMBYではないかと聞こえる演説を繰り広げたとき、私は戸惑った。(NIMBY:not in my backyard うちの裏庭には作らないで、の意。原子力発電所やゴミ焼却施設などの必要性は認めるが、居住地の近くに作られるのは困るという考えを表す言葉/三省堂大辞林)
彼女の自宅がある瀟洒な住宅地の一角に、区が新しい認可保育園の建設計画を発表したのだという。財界人や芸能人などの邸宅も多く、風光明媚で文化的、住みたい街ランキングでも常に上位にある憧れのエリアだ。「待機児童の問題が差し迫っているのはわかる。でも、“また”そこである必要はないと思う」と彼女は眉根を寄せた。
実はすでに数百メートル離れた場所に、古くからの認可保育園が存在する。だがその収容児童数が既にパンクしているがゆえの、新規建設計画である。
なぜ、私たちが我慢しなければならないのか
「駅から近いから、利用者に便利だからという理由で、なぜこのエリアが2軒もの保育園を抱えて我慢しなければならないのか」。駅から近い環境だからこそ気に入って、少し駅から離れたエリアより格段に地価が高いのを少々無理してでも購入しているのに、その駅から離れた格安エリアに住む住民が車でこのエリアに子連れで乗りつけ、騒音や違法駐車という迷惑行為を日々垂れ流してメリットを享受するのは納得がいかない……と彼女は続けた。つまり、彼女のエリアの住人は高齢だったり所得が高かったりで認可保育園を利用する人はほとんどいないのに、なぜ自分たちにメリットのない保育園を他のエリアの住民のために「抱えてあげなければ」いけないのかという主張だった。
自分も子育てしていたはずなのに
しかしその彼女にも、既に大きくなったとはいえ子どもがいるのだ。いま保育園に子どもを通わせる親たちと同じように幼い子どもを育てた経験があるのに、そういう考えになるのか……と、私はどう受け止めればいいのか困ってしまった。
その場がみな彼女の意見に肯定も否定もしかねて当惑しているのに焦れるかのように、彼女はその計画を推進している地元の議員にも批判の矛先を向け、議員が票集めのためにしてみせるポーズのせいで自分たちが不利益を被るのだ、だから自分は住民の反対運動に参加すると締めくくった。これは自分の好悪だけのエゴイズムではなく、質の悪い政治家の失策に振り回されることへのNOであり政治的態度である、と話を彼女なりの“高次元”な場所に上げてみせたように感じられた。
私は、高い教育を受け理性的だと思っていた大好きな友人の中から、きっちりと理論武装されてはいるがNIMBYネスらしきものが酔いに任せてひょっこりと表出したことにひどく衝撃を受け、どう消化していいものか困ってしまった。
小学校でも近隣対応に追われている
そういえば、息子が地元の公立小に通っていた時、私はPTAの役員を引き受けていた。新任でやってきた50代の副校長はとてもよく気のつく女性で、ときどき神経が細やかすぎて参っている様子でもあった。彼女が特に神経をすり減らしていたのは、学校の近隣住民や地元有力者との付き合いだった。
「学校の大きなシンボルツリーの落ち葉が多すぎて、周辺にお住まいの皆さんからご迷惑とのクレームがあったので」と、落ち葉の季節は毎日早朝に出勤し、1時間以上もかけて自ら学校の敷地をぐるりと一周掃いて回っていたのを見て、PTA役員が慌てて手を貸した。月例会議でも、彼女はクレーム対応の苦悩をぶちまけた。「地域の方から、子どもたちの登下校の声がうるさいとお電話をいただきました」「地域の方が、○○方面に下校する子どもが民家の高級車を触っていたとお怒りです」「校庭の砂が風で舞い、洗濯物が汚れたとのお電話がありました」……。
運動会前は、一軒一軒頭を下げて回る
運動会などの行事は、彼女にさあ疲弊しろと言うようなものだった。気の利いたお菓子に校長署名の手紙を添え、副校長を筆頭にPTA役員が列をなして地域の民家や地主宅を一軒一軒すべて、頭を下げて回るのだ。「○月○日○時~○時に運動会を執り行います。子どもたちの歓声や放送の音量、保護者の出入り、周辺の違法駐車駐輪、喫煙やゴミの投棄など、地域の皆さまには決してご迷惑をおかけせぬよう校内で取り締まりますので、何とぞご理解ご協力を賜りますようお願いいたします」。運動会におけるPTAの仕事とは、ひたすら児童や保護者の行動を「マナーを守ってください(しかしそれは誰のためのマナーなのか)」と時間ごとにパトロールして回る、組織的な「取り締まり」だった。
上の娘はその10年前に同じ小学校に通っていて、その時も私はPTA役員を引き受けていたが、こんなピリピリした様子ではなかった。しばらくの海外生活を経て帰国し、その小学校を今度は息子と訪れた時、同じ校舎のはずの学校敷地が周辺へ音や砂で迷惑をかけないよう、そして外から見えないよう暗い防塵シートですっかり囲まれ、正門は鉄鎖で閉じられ、防犯カメラとインターホンで武装された通用門から防塵シートをくぐって入るというスタイルになっているのを見て、「日本の学校はこんな状態になっているのか」と異様さにギョッとしたものだ。
日本の子ども嫌いは加速している
「人に迷惑をかけてはいけない」というプレッシャーがある日本社会において、そもそも子育ては親がかなり無理を強いられる行為のような気がしている。のどかさを残した時代であったなら子育ても「お互い様」と言えるが、少子化で子どもと接するチャンス自体が昔より明らかに減った現代都市では、子どもはイレギュラーな存在だ。鹿の仔とは違って産まれてすぐに自分の脚で立つわけでもなく、自分で食べ物を取りに行けるわけもない人間の子どもは、親からの注意を引きケアしてもらうべく大声で泣く。存在自体が本質的に「迷惑をかける」のであり、それが当たり前なのだが、少子化社会の都市生活は、そんな迷惑者への寛容さを著しく低めていくことで、都市としての機能や効率を上げているのではないか。
効率を尊ぶ社会では、「非効率の塊」とさえ言える子どもを持つ動機も低減する。そうして社会生活の中で子どもと接する機会自体が減れば、さらに子どもや子育て中の親への共感は低くなる。だから日本の子ども嫌いは加速している。――海外から帰国したばかりの頃、私はそんな印象を持った。
そう理解してから世の中を見ると、目黒区の閑静な住宅地での保育園建設反対署名であるとか、球技や大声を出すのが禁止されている数々の「児童」公園とか、ベビーカーや幼い子連れが乗り込むと露骨に舌打ちする電車内の乗客とか、地域で見過ごされる児童虐待とか、「いかにも(本当は子どもを迷惑な存在だと思っている)日本らしいな」と思うのだった。
誰の中にも冷淡で利己的な自分がいる
あるいは、自分の子どもは可愛くても、他人の子どもには同じ感情は持たないという部分もあるのかもしれない。人間とは、当事者意識や、社会的・協調的であろうとする努力を失うと、本来冷淡で利己的な顔をしている。きっと私も、何かの側面においてそうなのだ。
例えば先日、混雑時間帯の急行電車に揺られて仕事に向かう時、大型ベビーカーに子どもを乗せてそのまま混雑した車内に乗り込み、スマホで誰かとチャットを繰り広げるお母さんを見て、彼女にも今日は何か理由や事情があるのかもしれないとわかりつつも、冷めた視線を投げかけている自分に気づいてハッとした。
私の中にだって、狭量なNIMBY予備群は存在している。そうか、私も自分の子どもが大きくなったことで、小さい子どもへの関心や共感が薄まってきてしまったのかもしれない。とはいえ、誰もが一人でこの世に生まれてきたわけでも、一人で大きくなったわけでもない。「子どもは社会の宝」とか政治めいた表現をする以前に、あの大声で泣き大人にあやしてもらう子どもこそ自分自身のかつての姿であると思えば、子どもを「イレギュラーな迷惑者」と見なして自分のエリアから排除しようと“日本的な”NIMBYネスをあからさまに外に出す人たちは、何か人間的に大事なものを忘れてしまった自らの姿が見えていないような気がする。
(写真=iStock.com)
河崎 環
フリーライター/コラムニスト 1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。桜蔭学園中高から転勤で大阪府立高へ転校。慶應義塾大学総合政策学部に入学。奥出直人教授のもとで文化人類学・比較メディア論を、榊原清則教授のもとでイノベーション論を学ぶ。大学の研究者になることを志し、ニューヨーク大学ビジネススクールの合格も手にしていたが、子供を授かり学生結婚後、子育てに従事。家族の海外駐在に帯同して欧州2カ国(スイス、英国ロンドン)での暮らしを経て帰国後、Webメディア、新聞雑誌、企業オウンドメディア、テレビ・ラジオなどに寄稿・出演多数。教育・子育て、グローバル政治経済、デザインそのほか多岐にわたる分野での記事・コラム執筆を続け、政府広報誌や行政白書にも参加する。子どもは、20歳の長女、11歳の長男の2人。著書に『女子の生き様は顔に出る』(プレジデント社)。
我が身に置き換えて振り返る事の大切さを感じます。最近はアルファベット表記とカタカナ用語が多くて「父つぁん」も理解するのに専門家じゃ無いので苦慮する。「NIMBY」なんて初めて見たのでサッパリ判らない。
NIMBY(ニンビー)とは、英語: “Not In My Back Yard”(我が家の裏には御免)の略語で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す言葉だそうです。
これらの施設について「忌避施設」「迷惑施設」「嫌悪施設」などと呼称され、其処は疑問に答えて呉れる環境を感謝!皆さんは知って居るでしょうが説明を次に参照して居ますので確認して下さい。
この後に江戸川大学の研究者による分析のレポートを見て貰いますが、「父つぁん」は、昔の日本にも踏み込んで対比するような分析と「解」を見て見たかった?なぜ悪いと言われる行動に行くのかの対応策を提示する事をしないか?良い方向に立ち直らせるのが社会に与する学者?の基本である。一緒に読んで下さい。
吉永明弘 / 環境倫理学
私の研究分野は「環境倫理学」である。「環境倫理学」という名前からは、環境主義者の高邁な理想を聞かされるという印象を持たれるかもしれない。あるいは自然と人間に関する難解な論理を構築しているというイメージがあるかもしれない。確かに、環境倫理学には「人間中心主義は克服できるか」とか「自然にはいかなる価値があるのか」といった問いに対する込み入った議論がある。議論をきちんと追っていけば、現実の環境問題に関わる話だということが分かるのだが、ちょっと聞いただけでは、どこか浮世離れしているという印象を受けるかもしれない。
近年では、環境倫理学の議論も、より地に足の着いたものに変わりつつある。もちろん、それまでの議論が無意味だったというわけではない。総論的な議論も重要だし、今も行われている。ただそれに加えて、具体的な環境紛争の事例をふまえた議論が多く見られるようになったというのが、近年の環境倫理学の特徴である。
私自身は、地球の人口の半数以上が都市に住む時代に、身近な環境とは都市環境なのだから、都市環境をテーマにした環境倫理学を展開する必要があると考え、2014年の1月に『都市の環境倫理――持続可能性、都市における自然、アメニティ』(勁草書房)という本を上梓した。そこでは身近な環境に対する愛着が環境保全の鍵になると主張し、そこから他の地域や地球環境にも目を開いていくという道筋を描いた。
後にその点に対して、「はたしてそううまくいくだろうか。自分の住んでいる環境に対する関心にとどまり、他の環境に目が向かなくなるのではないか」という質問を受けたことがある。確かにそうかもしれない。まちづくりに熱心な人が地球環境には無関心ということはありうる。自分の地域の環境には関心があるが、他の地域の環境には無関心ということは、もっとありうるだろう。そこから、地域への愛着は乗り越えられる必要があり、より一般的な立場から環境保全を論じることが結局は重要なのだ、という意見が出されるかもしれない。
環境保全の動機づけ
より一般的な立場から環境保全を論じることは、確かに大切だろう。しかし、逆にそのことによって、地域への愛着や関心が軽視されることに対しては、あらためて疑問を呈したい。というのも、人々を環境保全へと動機づけるものは、具体的な地域環境に対する経験にあると思われるからだ。
サイエンスライターのデイヴィド・タカーチは、保全生物学者たちにインタビューをする中で、彼らが保全生物学を専攻したきっかけについて聞いている。その中に、子どもの頃の遊び場でもあった身近な自然が不当に破壊されたことへの憤りによって環境保全に動機づけられたという趣旨の発言がある。例えばリード・ノスはこう述べている。
「私が住んでいたのは、オハイオ州デイトン近郊の、開発が比較的急速に進んでいた地域でした。自分の目の前で、お気に入りの遊び場が破壊されていく。それは、遊び場がなくなってしまうという個人的なできごとではありましたが、目の前で生き物たちが殺されていくことは、いつも恐怖と悲しみで私を打ちのめしました」(タカーチ『生物多様性という名前の革命』(日経BP社)より)。
このように、「お気に入りの遊び場が破壊されていく」のを間近で見たという経験が、環境保全の研究を行う動機の一つになったとされているのである。もちろん、このような経験がないと環境保全活動ができないというわけではない。しかし、「自分の好きな場所を破壊されたくない」という気持ちが、環境保全の大きな動機づけとなることは確かだろう。
この場合の場所や環境は、いわゆる「自然」に限定されるべきではない。環境とは、自然と人工物を含んだ「身のまわり」を意味する言葉であり、典型的には生活環境のことを指す。「自分の住んでいる環境を守りたい」という気持ちも、環境活動への動機づけになるといえる。
「NIMBYのどこが悪いのか?」
しかし、このことを強調したからといって、「自分の地域の環境には関心があるが、他の地域や地球全体の環境には無関心」であることに伴う問題は解決しない。逆に、自分の地域の環境を守ることを声高に叫ぶことは、場合によっては「地域エゴ」と呼ばれて非難の憂き目にあうだろう。
例えば、自分たちの環境を守るために、廃棄物処理施設や葬儀場を自分の住む地域には建設させない(が、施設自体はどこかには必要だと考えている)というのが典型的な「地域エゴ」のイメージである。そのとき、地域住民は、他者の権利が犠牲になる可能性を省みずに、自分(たち)の権利、趣味、主義などを独善的に主張しているとして糾弾されることになる。
ここで「地域エゴ」と呼ばれるものは、欧米ではNIMBYと呼ばれており、近年では日本でもその名を耳にするようになった。NIMBYとはNot in my backyardの頭文字をとったもので、迷惑施設などを作る場合に「自分の裏庭だけはやめてくれ(他の人の裏庭に作ってくれ)」と言うことがNIMBYの主張とされる。関連する言葉として、NIABY(Not in any backyard)があるが、こちらは当該施設が「どの人の裏庭にも要らない」という首尾一貫した主張とされる。
これまでの環境倫理学では、地域エゴやNIMBYについて、明示的に検討されることは少なかった。そんな中、アメリカの環境倫理学の雑誌Ethics, Place and Environment(vol.13,Issue3)の中でNIMBY特集が組まれた。Feldman & Turner の意見論文「NIMBYのどこが悪いのか」(Why Not NIMBY?)と、それに対する6人の論者によるコメントが掲載されている(その後、それらのコメントに対して、Feldman&
Turnerは、その後継雑誌Ethics, Policy and Environment(vol.17,Issue1)にリプライを掲載している)。
NIMBYに対する三つの倫理的批判
Feldman& Turner の問題意識は、NIMBYを叫ぶ人々に対して倫理的な非難を向けることは妥当なのか、という点にある。基本的には、NIMBYを叫ぶ地域住民は自分が住んでいる環境を守ることを主張しているわけだが、そのような人たちを倫理的に非難してよいのだろうか。
Feldman& Turnerの答は、「NIMBYは倫理的に悪いとはいえない」というものだ。彼らによれば、NIMBYには(1)罪深き自分勝手である、(2)公共善に無関心である(全ての人のNIMBYの要求が尊重されたら、公共の利益になる施設はどこにも建設できなくなる)、(3)環境不正義の源泉となる(少数の豊かな人々のみが、自らのNIMBYの要求を通すことができ、そのしわよせが貧しい人々のいる地域に来ることになる)、という倫理的な批判があるが、それらはすべて反論できるという。
NIMBYは罪深き自分勝手ではない
Feldman& Turnerによれは、NIMBYとは住民の選好の表明であり、特に地理学的な偏好性(或る場所を他の場所よりも気にかけること)が示されており、それは必ずしも自己利益を伴っていないという。また、そこに自己利益が伴われていても、そのために悪徳な人になるわけではないという。彼らの論理を簡単な例で示してみよう。
寄付をすることは良いことであり、誰か他の人が寄付をすることは望ましいと思っているが、自分自身は寄付をせずに素敵なテレビを買った、という人はよくいるが、その人は悪人として非難されはしないだろう。同様に、彼らによればNIMBYのなかに自己利益が含まれていたとしても、それによって非難される理由はないのである。
NIMBYと公共善を対立的にとらえるべきではない
第二に、彼らによれば、NIMBYの要求を尊重することが、必然的に公共善の実現を妨げるわけではないという。また、たとえNIMBYの要求に従うことによって、他の人々が何かしらの犠牲を払うことになるとしても、NIMBYの要求は尊重されるべきであるとする。それは、たとえコミュニティがテロ攻撃にさらされることがあっても、市民的自由を侵害しないほうがよいのと同じことであると彼らは言う。さらに彼らによれば、地域住民の選好の表明としてのNIMBYを、政策立案者は良い政策をつくるための重要な情報として尊重しなければならないとする。そしてNIMBYという形で自分たちの選好を表明することは「市民の義務」であるとさえ述べている。
NIMBYは環境不正義の状況を固定化するわけではない
第三に、彼らは、NIMBYの要求に従うことが、実際に環境不正義(環境をめぐる不公平や差別)の状況を固定化するかどうかは偶然的な問題だと答えている。豊かな人々のNIMBYによって貧しい人々に負担が押し付けられることが想定されているが、逆に貧しい人々がNIMBYを叫ぶ場合もあるからである。
ただしこのテーマについての彼らの説明には甘いところがある。この点については、コメンテータの意見(本当は「住民参加」や「環境正義」を求めている住民たちにNIMBYのレッテルを貼るのは誤りだ)のほうに説得力がある。
NIMBY以外の要素のほうが問題だ
このように、Feldman & TurnerはNIMBYに対する三つの批判に反論し、NIMBYの要求に一定の意義を認めている。これを読むと、地域開発に対する抗議運動=「地域エゴ」「NIMBY」=悪徳と見なして、歯牙にもかけないという態度のほうが、倫理的に問題があるのではないかと思えてくる。
全体として、Feldman & TurnerはNIMBYを住民の選好の表明として、ニュートラルに扱っている。それに対応するように、Feldman
& Turnerの議論に対するコメントの中には、NIMBYが悪いというより、その主張に含まれている「偽善」の要素や、「フリーライダー」の要素が非難に値するのだという意見がある。その一方で、NIMBYという用語はあくまで軽蔑的なものであり、地域住民の要求にNIMBYというレッテルを張るのは不当だという意見もある。つまり、本当は「住民参加」や「環境正義」(環境をめぐる不公平や差別の是正)を求めている人たちの主張を、NIMBYという用語が覆い隠してしまう点が問題とされる。
これらのコメントは、NIMBYの評価の問題を超えて、地域環境問題における住民の主張をどう評価するかについて考える際に役立つだろう。例えば、住民を「偽善者」とか「フリーライダー」などと言ってみたところで、状況はあまり変わらないだろう。それに対して、「住民参加」や「環境正義」の論点をNIMBYが覆い隠してしまうという指摘には説得力がある。先にもふれたが、この点はFeldman&
Turnerの論文の弱いところであり、後の彼のリプライもやや的外れなものとなっている。
NIMBYは環境保全の動機づけになる
この論文をめぐるやりとりは、日本の「地域エゴ」という言説を考える上でも示唆に富んでいる。ただ一つ難をいえば、この論文では、風力発電所が例に挙げられていることである。この例がふさわしいかどうかは疑問である。むしろ近所に清掃工場、廃棄物処理場、葬儀場などがつくられるという問題のほうが、どこでも起こりうる身近な問題として感じられるだろう。
その際に、第一に、NIMBYは住民の意志の表明であり義務であるという論点には大きな意味がある。地域の政策や計画を進めるにあたっては、その実現可能性が考慮されるべきである。その際に、地域住民が反対していたとすれば、政策や計画がうまく進まなくなるのは当然のことだろう。NIMBYという形でも、住民の意志が表明されれば、それを組み込んで政策を進められるはずである。その貴重な情報を無視するのは、政策を進める側からしても損失であろう。
第二に、例えば清掃工場の建設を進める側は、反対住民に対して、自分勝手だ、エゴだ、偽善だ、フリーライダーだ、と言い立てるよりも、これを機に廃棄物処理問題に関心をもってほしい、家庭からのゴミを減らすことも必要だということを認識してほしい、と訴えたほうが、全体として良い結果を生むように思える。地域住民は、大量のゴミを生み出す社会の問題の最前線に立たされており、そこはゴミ問題をより一般的に考えるための入口でもあるともいえる。
この点について、NIMBYに関する著作を出している二人の論者の意見が参考になる。
「ようやく矛盾が矛盾として意識され、当然あるべき葛藤が生まれるのは、実際に『迷惑』が我が身に降りかかってきたときである。そういう立場に置かれてみてはじめて、人は現実(リアリティー)の痛みに目覚めて思わず大声を上げる。ところが不幸なことに世間は、それを『ニンビイだ』と指さして言うのである。そのように考えれば、ニンビイこそ現実(リアリティー)の自己表現であることがわかる。そして皮肉なことに、現実(リアリティー)がそのようにして自己を表出した途端にそれは単なるニンビイではなくなり、かえってそれを包囲する側のニンビイを映し出す鏡になる」(清水修二『NIMBYシンドローム考――迷惑施設の政治と経済』より)。
「NIMBYという問いかけは、作られようとしている施設を単に拒否することではなく、そのまえに『なぜ環境を守らなければならないのか』を自ら問うことを通して、より『普遍的なもの』が存在するのではないかという議論を、作る側と受け入れる側との間に提起する根源的な問いなのではないだろうか」(土屋雄一郎『環境紛争と合意の社会学――NIMBYが問いかけるもの』より)
NIMBYはこのような問いの契機になりうる。もちろん大前提として、住民参加のしくみがきちんと機能することと、環境正義という考え方が共有されていることが重要である。ただこれらはすでに地域問題に関する論文ではしきりに言われていることなので、あらためて注意を喚起するにとどめる。本稿のねらいは、NIMBYを要求することが必ずしも非難に値するわけではないことを示し、むしろそのことが環境保全の動機づけにつながることを示す点にあったからである。
*本論の詳細版として、『公共研究』11巻1号(2015年3月、千葉大学)に収録された吉永明弘「「NIMBYのどこが悪いのか」をめぐる議論の応酬」を参照。
https://synodos.jp/society/13790/2
吉永明弘(よしなが・あきひろ)
環境倫理学
1976年生まれ。2006年千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。現在 江戸川大学社会学部准教授。専門は、環境倫理学、公共哲学。著書『都市の環境倫理ーー持続可能性、都市における自然、アメニティ』(勁草書房、2014年)
吉永明弘先生もこの件では「NIMBY」で指摘される人を擁護して居る訳では無く、各方面の意見を読み込んでの分析で、擁護では無い事が判ります。同じ立場で研究している人の論考を参考に自分の考えを表明して居る事と同時に過去にはどの様な事例が有るのかも研究対象であると思うが、その過去にも悪例とか、上手く解決をした事例は無いのだろうか?
学校で学生たちに講義してディベート(debate)をさせて、ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論することして欲しい(広義のディベート)。討論(会)とも呼ばれている。
ディベートは、厳密にはディスカッション(discussion)や単なる議論とは異なるものであるが、一般にはこれらの区別なく「ディベート」ないし「討論」と呼ばれることが多い(最広義のディベート)。この語法は既に定着している部分もあるが、誤った使い方であるとの見方も根強いのでしっかりとした考え方を持って欲しい。
やはり、近年の環境問題も個人の生活空間での自己主張には「NIMBY」が付き纏って来ている。ここまで言って「父つぁん」が、はっと!気が付いた事が有りました。
元首相で包容力が大きな人を思い出して苦笑して居ますよ。
中国や韓国で謝罪外交を展開して居る鳩山由紀夫元首相の言動を容認できない事を先ず言って於きます。
此の元首相を理解するのに専門家じゃ無いので苦慮する。
どの様に見てもサッパリ判らないよ。他の人の考えを多く聞いて自分の考えが通用するのか通用しないのかを考えたい!
船津 徹 2020/06/17 09:15
「チャレンジしない子」「打たれ弱い子」が日本で量産されるワケ
「自己肯定感」がなければAIに負ける
https://president.jp/articles/-/36186
©
PRESIDENT Online ※写真はイメージです
船津 徹TLC for Kids 代表
明治大学経営学部卒業後、金融会社勤務を経て、幼児教育の権威である七田眞氏に師事し英語教材の制作などを行う。その後独立し、米ハワイ州に移住。2001 年、ホノルルにTLC for Kids を設立。英語力、コミュニケーション力、論理的思考力など、世界で活躍できる人材を育てるための独自の教育プログラムを開発する。著書に、『世界標準の子育て』(ダイヤモンド社)、『世界で活躍する子の〈英語力〉の育て方』(大和書房)ほか。
日本の若者は「自己肯定感が低い」とたびたび指摘される。なにが原因なのか。ハワイと上海でグローバル人材を育てる学習塾を展開する船津徹氏は、「日本では子どもが集団社会に参加する年齢になると、ありのままの自分を否定される場面が多くなり、自己肯定感が揺らいでしまう」と指摘する――。
※本稿は、船津徹著『失敗に負けない「強い心」が身につく
世界標準の自己肯定感の育て方』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
「根拠のない自信」が挑戦するパワーを生む
国立青少年教育振興機構が、米国、中国、韓国、日本の高校生を対象に行った意識調査(2018年)があります。この中で、「私は価値のある人間だと思う」という質問に「YES」と答えた割合は、日本人は44.9%でした。対して、米国は83.8%、中国は80.2%、韓国は83.7%といずれも高い数字が出ています。
日本人は謙遜しますから多少、色をつける必要がありますが、それにしても「自分は価値がある」と答えた高校生が44.9%というのは低すぎる数字です。裏返せば、「自分に価値がない」と感じている高校生が半数以上いるということです。
自己肯定感の定義はさまざまですが、この感情を支えているのは、「自分はできる」という「根拠のない自信」であると私は考えています。「自分はできる」と信じている人は、逆境や困難に直面しても、チャレンジを繰り返し、成功体験を積み重ね、「根拠のない自信」を「根拠のある自信」に変えていくパワーを持っています。
これとは反対に、「根拠のない自信」が小さいと、「失敗するのではないか」という「不安」が目の前に大きく立ちはだかり、一歩が踏み出せなくなり、新しい挑戦がしにくい、人生に対して消極的な態度が形成されてしまうのです。
子供の不安は親世代の不安の反映
今、子育てをしている親の多くは、日本のバブル経済後に社会人になった人たちであり、高度経済成長期の社会が持つ楽観性や明るさを経験したことがありません。日本が自信と活力を失い、未来への夢や希望が描きづらい環境で育ってきた世代ですから、子どもの将来にも漠然とした「不安」を持っているのです。
また、今の子どもたちが社会に出る20年後には、第4次産業革命とも言われるIoT(もののインターネット化)、ビッグデータ、AI(人工知能)などをはじめとする技術革新が進展し、私たちの仕事や生活のあり方を大きく変える超スマート社会が到来すると言われています。そのときに子どもたちに要求される技能は何なのでしょうか? 今のままで、超スマート社会に適応できる子どもを育てられるのでしょうか? 親たちはとまどいを感じています。
さらに、グローバル化の進展による人材の流動化は競争の激化をもたらします。グローバル化の本質は、教育、スポーツ、アート、ビジネスなど、あらゆる面において、日本が世界競争へ巻き込まれるということです。国際社会で活躍するには、英語力はもちろん、世界標準の視点、知識、技能を身につけることが要求されます。
わが子の「自己肯定感」を育てていますか
以上のように、社会が大きく変化しつつある「今」子育てをしている親の多くは、先の見えない時代への「不安」を抱え、何を信じ、何を基準に子育てをすればいいのかわからなくなり、子育てへの自信を失いかけているのです。
そこに登場したのが「自己肯定感」です。自己肯定感を高めれば、負けない子、たくましい子、チャレンジできる子に育てることができる! 時代がどんなに変化しても、世の中がどう変わっても、自分らしく、自己実現していける子になる。先行き不透明な時代の特効薬として、「自己肯定感」が注目されているのです。
自己肯定感というのは新しい言葉ですが、要するに子どもの「心」を育てることであり、日本では太古の昔から実践されてきたことです。そして、子どもを見守る部分、子どもに注意する部分の線引きさえ知れば、これまで大変だった子育てでも、気持ちに安心感が生まれるはずです。
注目の「レジリエンス」の源にも
競争が激しいグローバル社会で活躍するためには、勇気を持って困難や逆境に立ち向かっていく力、コツコツと努力を継続する力、失敗してもチャレンジし続ける力といった「メンタルタフネス」が求められます。メンタルタフネスの源は「できる」という自信であることは言うまでもありません。
グローバル化がいち早く進んだアメリカの子育てを見ると、「自信育て」を強調していることがわかります。幼い頃からスポーツに参加させ、競争経験を積ませる。子どもの個性を尊重して自主性を育てる。子どもの小さな達成や成長を見逃さずにほめるなど、「自信」を引き出す子育てを実践しています。
また、近年のアメリカの子育てで注目されているのが「Resilience/レジリエンス」です。グローバル社会では、子どもがいかなる道を目指すにせよ、激しい競争を避けることはできません。上を目指せば目指すほど競争のレベルが上がり、誰でも一度や二度は大きな失敗や挫折を経験します。そのとき、燃え尽きから子どもを救い出してくれる力が「レジリエンス」です。
「レジリエンス」とは、失敗や挫折など、強いストレスに直面した際の「逆境力」「回復力」「跳ね返す力」「折れない心」という意味で使われる言葉です。レジリエンスは、どうやっても曲がらない鋼のような強さではなく、曲がってもすぐ戻る竹のようにしなやかな抵抗力であり、失敗や挫折をバネに、さらに大きく成長していける力と言えます。
チャレンジできなければ生き残れない
これからのグローバル競争を生き抜くには「チャレンジ精神」という力強い推進力と、失敗や挫折をバネに飛躍する「レジリエンス」の二つを兼ね備えていることが重要です。これらは異なる力に見えるかもしれませんが、共通する土台の上に成り立っています。それが「自己肯定感」です。
グローバル競争時代を生き抜くメンタルタフネスを子どもに与えるためには、「自己肯定感」をどっしりと安定したものに育てることが何よりも重要です。自己肯定感が安定すると、その上に成立する「チャレンジ精神」と「レジリエンス」も強くなります。
すると、さらにその上に積み上げられる「勉強」「習い事」「人間関係」のすべてが高いレベルで達成できるようになるのです。
「個性」と「集団性」の折り合いをどうつけるか
これからの社会では不可欠な自己肯定感なのですが、集団の調和を重視する日本の価値観とは相反する要素を含んでいます。自己肯定感は子どものあるがまま(個性)を受け入れ、尊重することで育ちます。
しかし日本では、子どもが集団社会に参加する年齢になると、「個性」を抑制し、「集団」を優先することが要求されるようになります。当然、「個性」が強い子どもは、ありのままの自分を否定される場面が多くなりますから、自己肯定感が揺らいでしまうのです。
これからの子どもたちに求められる「個性」と、日本の伝統的な価値観である「集団性」の折り合いをどうつけていくべきなのか。個性をつぶさずに、集団社会にもうまく適応できる子どもを育てることが大切です。
----------
船津 徹(ふなつ・とおる) TLC for Kids 代表 明治大学経営学部卒業後、金融会社勤務を経て、幼児教育の権威である七田眞氏に師事し英語教材の制作などを行う。その後独立し、米ハワイ州に移住。2001 年、ホノルルにTLC for Kids を設立。英語力、コミュニケーション力、論理的思考力など、世界で活躍できる人材を育てるための独自の教育プログラムを開発する。著書に、『世界標準の子育て』(ダイヤモンド社)、『世界で活躍する子の〈英語力〉の育て方』(大和書房)ほか。 ----------
中国に行って、人権侵害や環境問題を指摘して於く位の態度があればちょっと納得しても好いんですが?
脇道に逸れたので戻しますが、其処は皆さんの問題として読んで欲しい。
頭の最初の記事で環境を考えた行動では無い様で「NIMBY」として「感謝が感じられない事も少子化と高齢化社会に向かう日本で大きな問題に為って行きますよ。船津 徹TLC for Kids 代表の考え方も大事ですが国民性にも配慮しないと反発ばかりに為る様でちょっと心配!
日本では古来言われた事で「子供叱るな、来た道だ」 「年寄り笑うな、行く道だ」確かにこれでは変化は望めないかもしれませんが、意外に大事なポイントであるように思います。
皆さんのこれから向かう社会が考えなければいけない大きな問題提起だと思いませんか?
「俺っち」には、人様と違ってせいぜい20年生きると言われるので「父つぁん」は、昔の日本にも踏み込んで対比するような分析と「解」を見て見たかった?のが判るので、学者の研究者が「NIMBY」の理解を示すのが悪いと言っている訳ではない。
良い方向に立ち直らせるのに対応策をなぜ提示する事をしないのか?其れを社会に影響を与える学者?に問うのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿