2019年11月22日金曜日

東京にあった「幻の私鉄」、たった25年間で消えてしまった!

日本の鉄道は1872年(明治5年)に開業したが、この時、投入された車両は1号機関車などすべてイギリス製の車両であった。

浮世絵に描かれた開業当初の鉄道(横浜)


日本初の鉄道路線である新橋駅 - 横浜駅(現桜木町駅)間が、明治59月12(天保暦、翌年から採用されたグレゴリオ暦では18721014日)の正式開業は、汽笛一声新橋をと言って鉄道唱歌で皆さんの頭に刻まれて居るけれど蒸気機関車から電気鉄道に代わって行った時期に日本各地に多くの鉄道が敷設されて行きました。この記事の東京にあった「幻の私鉄」、たった25年間で消えてしまった理由に於いて当時の城東電気軌道は1910年頃、現在の小松川や松江、一之江周辺の資産家が中心となって、錦糸堀(錦糸町駅前)から今井橋(江戸川区江戸川4丁目付近)まで結ぶ鉄道路線として計画されたことに始まるが、稼働してから思い掛けずに25年の短命で現在の人の記憶から消えてしまった事を知って昔の国鉄が民間になってJRに為った理由を知って居るでしょうか?各地に国鉄が日本を網羅して行った路線で採算を考えてサードパーティー企業に売却!ローカル線として各路線は工夫を凝らして生き残りに必死で頑張って居ます。記事は当時のその地域で鉄道空白地域・江戸川区の歴史の中に、たったひとつだけ例外的に登場した私鉄があった。それが城東電気軌道である。


 枝久保達也 2019/11/18  06:00 

東京にあった「幻の私鉄」、たった25年間で消えてしまった理由 



© Diamond, Inc 提供 首都高小松川ジャンクションの小松川線合流部付近に、幻の私鉄「城東電気軌道」の駅があった Photo:PIXTA

121日に開通する首都高小松川ジャンクション下は、かつて「幻の私鉄」の駅があった場所だった。鉄道空白地域だった江戸川区周辺の資産家たちが作った城東電気軌道である。せっかく整備された私鉄が、たった25年ほどで消えてしまった理由とは?(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)

小松川ジャンクション下に
存在した「幻の私鉄」の駅
 首都高速道路は1018日、整備中の小松川ジャンクションを121日午後5時に開通すると発表した。首都高小松川線(7号線)と中央環状線(C2)はこれまで、交差しながらも連絡していなかったので、千葉から埼玉方面に向かうには都心環状線(C1)を経由せざるを得なかった。しかし今後は小松川ジャンクションで小松川線の千葉方面と中央環状線の埼玉方面が結ばれ、所要時間の短縮、周辺道路の混雑緩和、事故時の迂回ルートになることなどが期待されるという。

 この小松川ジャンクションの足元に、かつて私鉄の駅があったことをご存じだろうか。

 現在の江戸川区にあたる地域では、北端をかすめるように走るJR総武線(1894年開業)と京成電鉄(1912年開業)の2路線を除き、長らく鉄道整備が進まなかった。

 ようやく1969年に、地下鉄東西線東陽町~西船橋間が開通すると、葛西駅を中心に南部の開発が進み、都心近郊の住宅地としての性格を強めていく。しかし、区中央部を横断する路線は、1986年から1989年にかけて順次延伸開業した都営新宿線東大島~本八幡間を待たねばならなかった。

 ところが鉄道空白地域・江戸川区の歴史の中に、たったひとつだけ例外的に登場した私鉄があった。それが城東電気軌道である。

 城東電気軌道は1910年頃、現在の小松川や松江、一之江周辺の資産家が中心となって、錦糸堀(錦糸町駅前)から今井橋(江戸川区江戸川4丁目付近)まで結ぶ鉄道路線として計画されたことに始まる。

 当時の東京市の境界線は亀戸~錦糸町間の中間あたりだった。東京市が運営する「市電」は、市域の外れである錦糸堀まで整備されていたことから、錦糸堀以東に私鉄を整備することで、都心と江戸川エリアをつなごうという構想だった。

都心と江戸川をつなぐはずが
路線が分断された意外な理由
 紆余曲折を経て1917年に小松川線(錦糸堀~小松川間)を開業させるが、小松川より先への延伸はなかなか実現しなかった。ようやく1925年になって、今井街道に並行して、江戸川線(東荒川~今井橋間)が開業。江戸川線の始発駅である東荒川駅が置かれていたのが、首都高の小松川ジャンクション(小松川線側)が設置された場所であった。

 しかし、この鉄道には重大な「問題」があった。本来、錦糸堀と今井橋をつなぐ路線として計画されたはずが、途中区間の線路がつながっておらず、小松川線と江戸川線は分断されて運行していたのである。両線の間に、幅500メートルの荒川放水路が流れていたからだ。

 荒川放水路の建設が決定したのは1911年のこと。前年8月に東京下町で発生した大洪水の教訓をふまえ、荒川(現在の墨田川)の水を東京湾に放水するために、1913年から1930年まで、17年の歳月をかけて整備した人口の河川である。

 城東電気軌道が路線建設を出願したのは、水害3ヵ月前の19105月のことだから、荒川放水路の整備はまったく想定外の出来事であった。同社には荒川放水路を横断する鉄橋を自前で建設する資金はなく、仕方なく荒川放水路は連絡バスで渡っていたのである。

 江戸川線が開業した時、並行する今井街道には、荒川放水路を越えて小松川まで乗り入れる路線バスが運行されていた。電車のみならず、線路も保有して整備しなければならない鉄道会社に対し、車両だけあれば運行できるバス会社は、鉄道より安い運賃を設定できる。行政が道路を整備してくれれば、営業エリアをどんどん広げることができる。この路線バスも、終点側は今井橋を越えて、行徳や浦安まで直通していた。

 そうなると、一本で錦糸堀まで行けるならともかく、途中で連絡バスに乗り換えなければならない江戸川線を使う理由はない。結局、城東電気軌道は路線を防衛するためにライバルのバス会社を買収したが、並行するバス路線は自社路線としてそのまま運行することになった。昭和初期に急速に発展した路線バスは、郊外鉄道会社の経営を揺るがす手ごわいライバルだったのである。

都電、トロリーバス、そして
通常のバスに変わっていった
 やがて昭和の不景気の時代が到来し、城東電気軌道の経営は低迷。バス会社や鉄道会社との合併を繰り返し、最終的には1942年、市電(現在の都電)の一部に組み込まれて、私鉄としての使命を終えている。

 都電「26系統」になった旧江戸川線は、荒川放水路による分断問題の解決に着手する。しかしその答えは、鉄道としての運行を取りやめ、架線から電気を取り入れて道路上を走行するトロリーバスに転換するというものであった。

 26系統は1952年、都電としては最も早いタイミングで廃止され、トロリーバス「101系統」に転換された。トロリーバスは道路橋で荒川放水路を渡り、亀戸・押上・浅草を経由し、上野公園まで運行し、ようやく乗り換えの不便は解消することになった。しかし、わずか16年後の1968年に東京都のトロリーバス事業は全廃され、通常のバスに置き換えられることになった。

 現在、今井~亀戸駅前を結ぶ都営バス、かつてと同じ「26」の数字を背負う「亀26系統」は、旧江戸川線の系譜を継ぐ路線である。

当時は東京市?は戦前の色んな伏線が有るのが判ったけれど結局、大掛かりな工事を行う事も出来ずに、時代の変化に飲み込まれて行ったんだ。
昭和の戦争前の不景気に翻弄されて東京市の端で幕を降ろして行く顛末で消えて行った。

「俺っち」が聞いた事も見た事も無いので「父つぁん」の説明で初めて知りました。都内の張り巡らす路線電車で学校へ行き、現在の都電一本の早稲田から荒川行きの都電を確認する事でこの様子まで知らなかった。記事の中に有るトロリーバスの存在も懐かしいものが有りますね。今の子供さんもトロリーバスを都内では見る事も出来ないので知って居るか聞いて見たいです。

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