2021年12月19日日曜日

首相真珠湾訪問 75年前の証言

 今日は先の大戦に兵士として従軍した証言を見たので戦争賛美では無く、「戦争の名目は常に『国民の幸せのため』だった。安倍首相もそう言っており、再び戦争の道をたどらぬよう気を付けなければいけない」と警鐘を鳴らした。二度と戦争を遣っては行けないと専守防衛の国防で今迄、日本は遣って来た訳だ。鉄のカーテンが崩壊!戦後に国連を創り上げた英国のチャーチル首相が言った鉄のカーテンが平成元年(1989年)19895月、改革を進めていた時のハンガリー首相ネーメト・ミクローシュにより、ハンガリー・オーストリア国境間に存在した鉄条網が撤去された。ハンガリーの西欧復帰を目指した政策の一つであったが、これが鉄のカーテンに穴をあけることになった。

右と左、保守と全体主義が近年の色分けが出来る時代。保守と言っても人の話を良く聞いて改善を諮っていく人たちが多く、全体主義は共産主義に通じると理解しているのが「父つぁん」の認識!安倍元首相が真珠湾攻撃の地に訪れたこの地に時事通信社が採り上げたのが当時の日本兵の証言に眼を付けたのでしょうね!



  20161223日配信

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首相真珠湾訪問 75年前の証言

https://www.jiji.com/jc/v4?id=201612pha0001

 

空母で出撃の旧日本兵



  

真珠湾攻撃について話す長沼元さん=20161214日、福岡市南区【時事通信社】

 

◇「平和考える機に」

 

 太平洋戦争の火ぶたを切る奇襲攻撃の舞台となった真珠湾を安倍晋三首相が訪れ、犠牲者を慰霊する。75年前の作戦に参加した旧日本兵は「遺恨を乗り越え、平和を問い直す機会にしてほしい」との思いを強くする。

 

◇「だまし討ち」悔しい

 

 「日本人の負い目じゃないだろうか」。真珠湾攻撃で空母「加賀」に乗り組み、艦上攻撃機の整備に携わった長沼元さん(96)=福岡市南区=は「宣戦布告が攻撃の後になり、『だまし討ち』と言われているのが残念」と悔やむ。

 

 福岡市の農家で育ち、21歳だった1941年に徴兵された。11月中旬、行く先を告げられぬまま九州の港を出発。択捉島の単冠湾を経由し航行中の同月末、艦長が乗組員を集めた。「この部隊は12月8日、真珠湾を攻撃する」。冗談かと思ったが、艦長は「知っている者は君たちと天皇陛下、作戦本部だけだ」と続けた。ついに戦争が始まると実感し、無事に帰れるのかという不安が募った。

 

◇敵兵と目合う

 

 作戦当日は午前4時ごろ起床し、次々と飛び立つ攻撃機に手を振った。約50分後、「奇襲成功」との連絡に「ワーッ」と歓声と拍手が上がった。その夜、特別にワインや菓子が配られたという。

 

 翌年6月のミッドウェー海戦。突っ込んできた米軍機のパイロットと甲板上で目が合い、「若い者同士で憎しみはない。友達になれたかもしれないのに」と思ったことが忘れられない。爆風で両手足にやけどを負い、兵役免除で福岡に戻った。

 

 「当時はみんなと一緒で高揚感があったが、作戦は正々堂々とすべきだった」と長沼さん。「オバマ大統領が広島に来たから、安倍首相も行きやすくなった。慰霊は大事だ。日米関係は前向きに進めないといけない」と話した。

 



  

海軍での配属先などを記した履歴表を手に、真珠湾攻撃について話す川上秀一さん=20161215日、岡山県笠岡市【時事通信社】

 

◇恐怖隠し鼓舞

 

 空母「瑞鶴」の航空整備兵として真珠湾攻撃に参加した川上秀一さん(98)=岡山県笠岡市=は「慰霊は素晴らしいこと。平和を考える機会にしたい」と歓迎する。

 

 攻撃前夜の4112月7日、戦闘機を飛行甲板に並べ終えトイレに向かうと、若い兵隊がガタガタと体を震わせていた。「戦争には勝てるんでしょうか」。整備班長の川上さんは自身の怖さを押し隠し、「しっかりせえ。勝ったようなもんじゃ」と背中をたたいて鼓舞した。8日未明、次々と飛び立つパイロットを「戻って来いよ」と願いながら見送った。

 

 川上さんは「戦争はしちゃいけん。勝っても負けても得るものは一つもない」と語る。「歴代総理で初めて慰霊に行く。もっと早くチャンスがあればよかったが、素晴らしい決断だと思う」(20161223日配信)

 

真珠湾で使用の魚雷製造 被爆の長崎元技術者

 



  

真珠湾攻撃で使用された魚雷の製造に携わった中島隆さん=20161219日、長崎市【時事通信社】

 

◇「兵器要らない世界を」

 

 日本軍による真珠湾攻撃で主要兵器として使われ、米側に多大な被害を与えた「九一式航空魚雷」製造に携わった長崎市の中島隆さん(90)は「哀れな戦争を始めた場所で両首脳は歴史に向き合い、兵器が要らない世界に向け努力してほしい」と訴える。

 

 1941年に三菱長崎工業青年学校に入学。勉強しながら三菱重工業長崎兵器製作所で九一式魚雷のエンジン部分の設計を担った。「当時は兵器を作るのは名誉なことと思っていた」

 

 開戦2カ月前。上司が「この魚雷が使われる。今作っている魚雷はいっぺんに使われ、なくなってしまうだろう」と漏らした。「どことの戦争で使うか言わなかったが、英国か米国ということはだいたい分かった」という。真珠湾で使用され大きな戦果を挙げたことは、後になって聞いた。

 

 原爆が投下された45年8月9日、爆心地から約1キロのビルにある職場にいた。「白い光に、反射的に押されるように机の下に潜った」。気付いた時には数メートル吹き飛ばされ、崩れた天井や壁の下敷きに。街はがれきと化していた。「何もない。人も何も。静かだった」。負傷した友人を背負って逃げたが、数カ月後に亡くなった。

 

 開戦から75年。「戦争の話を伝える人がいなくなってしまう」と危惧する。戦後生まれの日米首脳には「戦争で何が起こったのか知り、犠牲者を弔う気持ちで真珠湾に行ってほしい」と注文する。「自衛のため最低限の武装は必要かもしれないが、理想は軍備のない世界。兵器の要らない世界にしてほしい。戦争はもうたくさん。絶対してはいけない」と繰り返した。(20161224日配信)

 

重巡で800人の胃袋支えた乗員

 



  

履歴書を手に、自分が参加した真珠湾攻撃を振り返る小島昌三さん=20161213日、新潟市【時事通信社】

 

◇料亭守る母に生還誓う

 

 75年前、旧日本海軍の重巡洋艦「利根」の乗員だった板前小島昌三さん(96)=新潟市中央区=は、母と交わした「絶対に生きて戻る」との約束を胸に、真珠湾攻撃の日を迎えた。

 

 1920年、老舗料亭の長男として出生。15歳で東京・日本橋の料亭で板前として修行を積み、新潟に戻った直後の41年1月、召集令状を受け取った。出征前、母モトさん(故人)から「私が生きている限り守っているからね」と声を掛けられた。父は既に他界。母の悲痛な思いを感じ取った。

 

 板前の腕を生かし、主計係として乗員約800人分の食事を担当していた同年11月下旬、艦長が全員を甲板に集めて切り出した。「桶狭間の戦いを知っているか」。織田信長の奇襲攻撃になぞらえ、軍勢で劣る日本が米軍を奇襲する計画が明かされた瞬間だった。

 

 寄港先の択捉島では、全員が名前入りの封筒に毛髪や爪、私物のシャツを入れて島に残した。激戦で命を落とせば遺品となる。「生きて帰れるとは思えない」。母との約束が揺らいだ。日米交渉が決裂し、奇襲決定を告げる電報が届くと、艦内はこれまでにない緊張感に包まれた。

 



  

小島昌三さんの従軍当時の写真【時事通信社】

 

 迎えた攻撃当日の朝は雲一つない晴天。「天の助けだ」と乗員の士気は一斉に上がった。「(高度を)下げろ、見つかるぞ」。偵察機に指示する怒号が飛び交う。無線から漏れるのは、米軍の「これは訓練ではない、軍隊に復帰しろ」との指令。敵機の攻撃に備え、高角砲の弾を詰める持ち場についた小島さんは、奇襲の成功を予感しながら「絶対に生還する」と決意を新たにした。

 

 その後のミッドウェー海戦も経験した小島さんは終戦後、料亭を継ぎ腕を振るい続けた。安倍晋三首相の真珠湾訪問について、「一つの儀礼だろうが、意味のあること。生きているうちに見ることができるとは」と感慨を込めて語った。(20161225日配信)

 

日米で戦没者慰霊続ける 静岡の医師

 



  

米兵の遺品の黒焦げの水筒と、今年の日米合同慰霊祭のパンフレットを持つ菅野寛也さん=20161213日、静岡市葵区【時事通信社】

 

◇「哀悼の思い伝えて」

 

 旧日本軍がハワイを奇襲した真珠湾攻撃から75年目となった今月8日、現地で開かれた初の日米合同の追悼式典に、静岡市葵区の医師菅野寛也さん(83)が招待された。日米双方の戦没者を弔う「日米合同慰霊祭」を40年以上続ける菅野さんは、「安倍晋三首相には、哀悼の思いを十分に米側に伝えてほしい」と願う。

 

 1945年6月、米軍による静岡空襲で、11歳だった菅野さんは焼夷(しょうい)弾の雨の中を逃げ回った。「落ちたぞ」。叫び声を耳にし行ってみると、空中衝突したB29爆撃機2機が墜落していた。この夜の記憶に加え、軍医だった祖父が敵味方の分け隔てなく戦傷者を手当てしていた姿が強く印象に残っている。

 

 現場で搭乗員の遺品とみられる黒焦げの水筒を拾った僧侶伊藤福松さん(故人)が、搭乗員23人と空襲の犠牲者を弔うため、毎年6月の慰霊祭を始めた。菅野さんは72年から関わり、伊藤さんが亡くなった後は、主催者を引き継いだ。慰霊祭には在日米軍の関係者も参列。水筒に入れたバーボンを慰霊塔に注ぐ「献酒」を行う。米兵が強く握りしめたのか、水筒には指の跡がくっきりと残る。

 

 91年からは、真珠湾でも慰霊をしている。最初はアリゾナ記念館にすら入れず、手前の桟橋で1人で水筒から水を注いだ。続けるうち、次第に退役軍人らが協力してくれるようになった。今年は米側が公式な主催者となり、記念館の下に沈む戦艦アリゾナに向かってバーボンを注ぐ献酒も認められた。

 

 8日(現地時間)の合同追悼式典では、最前列の席へ案内された。日米の国旗が掲げられ、日本の「君が代」が演奏された時、驚きと感激に身震いし「心臓が止まるかと思った」と言う。

 

 「首相の訪問をずっと願っていた。謝罪の必要はないが、哀悼の思いを第一に伝えてもらいたい」と話す菅野さん。「退役した米軍人が『かつての敵国の兵士と握手することで、俺の戦争は終わる』と話していた。首相が思いを十分伝えることで、両国のわだかまりが氷解し、そこから平和が始まる」(20161226日配信)

 

「戦争知るきっかけに」 元ゼロ戦搭乗員家族ら

 



  

ゼロ戦パイロットだった原田要さん(後列左から2人目)。写真は20歳前後に撮影された[原田孝成さん提供]【時事通信社】

 

◇侵略の歴史も直視を

 

 「何のために行くのか。本音が見えない」。真珠湾攻撃にも参加した元ゼロ戦搭乗員で、5月に99歳で亡くなった原田要さんの三男孝成さん(66)=長野市=は、安倍晋三首相の真珠湾訪問に首をかしげつつ、「戦争を知るきっかけになれば」と願いを込める。

 

 旧日本海軍のパイロットだった要さんは日中戦争からゼロ戦に搭乗し、真珠湾攻撃では艦隊の護衛を担当。終戦までに多くの戦闘機を撃墜する一方、自らも被弾して重傷を負った。

 

 戦後は沈黙を守ったが、経営する幼稚園の園児が1991年の湾岸戦争の映像を見て「花火みたいできれい」と言ったことに衝撃を受け、講演や執筆を開始。全国各地で毎年20回程度、自身の体験を赤裸々に語り、戦争の悲惨さを訴える活動を約20年間続けた。

 



  

旧日本軍のゼロ戦パイロットだった原田要さんの三男孝成さん=20161214日、長野市【時事通信社】

 

 孝成さんの目には、安倍首相の真珠湾訪問がオバマ米大統領の広島訪問に対する「返礼」や、大統領交代前の政治的パフォーマンスにすぎないと映る。「おやじは戦争の恐ろしさを風化させてはいけないとの思いで活動していた。今回の訪問が、せめて戦争を知らない人たちが知ろうとするきっかけになってくれれば」と話した。

 

 要さんらを取材したドキュメンタリー映画「ひとりひとりの戦場 最後の零戦パイロット」を制作した映画監督楠山忠之さん(77)は、真珠湾攻撃で日系移民を含む多くの民間人が犠牲になったことや、日中戦争との連続性を指摘。「日米両国の兵士だけでなく、巻き添えになった民間人や、中国侵略の犠牲者も追悼してほしい」と願う。

 

 要さんは映画で、真珠湾攻撃の前に中国本土を爆撃した経験を振り返り、日本軍が南京を占領した際には、民間人に偽装した兵士がいるとして中国人を無差別に殺害する様子を目撃したことも証言した。

 

 楠山さんは「真珠湾攻撃で戦争が始まったように思っている人も多いが、太平洋戦争と日中戦争はつながっている。歴史を総括するチャンスだからこそ、首相は中国を侵略した事実にも向き合ってほしい」と求めた。(20161226日配信)

 

謝罪は不要、未来へ節目 聞き取りの大学教授ら

 



  

2014年のハワイ現地調査で、元米軍衛生兵のスターリング・カールさん(右)と握手する井上泰浩広島市立大教授[井上さん提供]【時事通信社】

 

◇「元米兵や日系、恨みない」

 

 安倍晋三首相が日本時間28日午前、ハワイの真珠湾を訪れ、戦没者を慰霊する。旧日本軍の真珠湾攻撃を受けた元米兵の聞き取り調査をした大学教授や、迫害された日系人を取材した映画監督は「ハワイは日米和解の象徴。寛容の精神が両国に広がってほしい」と願っている。

 

 「謝罪は求めていないし、『もう解決した話でわざわざ来なくても』と言う人もいるほどだ」と話すのは、201314年にハワイ大客員研究員として現地調査をした広島市立大教授井上泰浩さん。年月に伴うハワイ住民や元軍人の心情の変化を感じるといい、「衛生兵として多くの仲間の遺体を見た95歳の男性でさえ『恨みは全くない。今は友人だ』と笑ってくれた」と振り返る。

 

 転機として終戦50年目を挙げ、当時のブッシュ大統領が真珠湾で、自身の従軍経験を踏まえ、なお融和を訴えた演説で対日感情が和らいでいったと説明する。井上さんは「かつて反日一色だったアリゾナ記念館も、客観的な史実に向き合う展示に様変わりした」と指摘。「ハワイは和解の象徴。未来への節目として、訪問が歴史に残ればいい」と話した。

 

 日系移民に関するドキュメンタリー映画を制作した松元裕之さん(52)=神奈川県鎌倉市=も「謝罪ではなく、平和を祈れば十分」と話す。

 

 真珠湾攻撃で、日本からの移民や日系人は収容所に入れられたり迫害されたりした。家族のため軍に志願した2世も多く、ハワイ出身者の部隊は多くの戦死者を出した。松元さんは元隊員や移民ら数十人にインタビューしたが、ほぼ全員が「戦争で仕方ない」と話し、日本への親愛の情と敬意が変わっていないことに驚いたという。

 



  

真珠湾攻撃翌日の日系移民向け新聞を手に、インタビューに答える映像プロデューサーの松元裕之さん=20161221日、横浜市中区【時事通信社】

 

 松元さんが所有する攻撃翌日の現地新聞には、日本人や日系人の犠牲者名も並ぶ。「同胞や民間人の被害は事実。原爆とは違うとか謝罪の是非にこだわるのは不毛な議論では」と語る。

 

 「日系人はつらい過去を持ちながら、日米の架け橋になった。訪問決定後に話した元隊員らもみな歓迎していた」と松元さん。「記念館には広島の折り鶴も展示され、ハワイは日米の平和と未来の先進地だ。思いやりと協調を重んじるアロハの精神が広がってほしい」と語った。(20161227日配信)

 

友の多く生きて帰れず 「戦争しない国に」 元日本兵



  

真珠湾攻撃作戦について語る駆逐艦「陽炎」元航海長の市来俊男さん=20161216日、さいたま市南区【時事通信社】

 

◇集団的自衛権に懸念

 

 安倍晋三首相が日本時間の28日午前、真珠湾を訪問する。多くの若者の命が失われる中を生き残った元日本兵は、悲惨な戦争の記憶が風化しないよう願うとともに、二度と戦争に巻き込まれない社会をつくってほしいと訴える。

 

 「訪問を、若者が戦争を考えるきっかけにしてほしい」。駆逐艦「陽炎」の航海長として真珠湾攻撃に参加した市来俊男さん(97)=さいたま市南区=は語る。

 

 194111月、作戦や行き先を知らされないまま広島県の呉港を出発。12月8日早朝、陽炎が護衛する空母「蒼龍」から続々と発艦する飛行機を見た。「魚雷命中」「撃沈」。次々と入る戦果の電報に、仲間と喜び合った。

 

 しかし、終戦までに248人いた海軍兵学校の同期の3分の2が戦死。玉音放送を聴き、「むなしい努力だった」と落胆した。戦後、本を執筆するなどして戦争体験を伝えてきた市来さんは「平和がどのように出来上がってきたのか、若者によく勉強してほしい」と訴えた。

 

 戦艦「霧島」で艦長付き航海士を務めた後宮俊夫さん(94)=滋賀県湖南市=は「二度と戦争を起こさないと誓う機会にして」と望む。

 



  

戦艦「霧島」の航海士として真珠湾攻撃に参加した思い出を振り返る後宮俊夫さん=20161219日、滋賀県湖南市【時事通信社】

 

 奇襲は大成功に終わり、「満足感でいっぱいで、攻撃を受けた米兵のことを考える余裕はなかった」。しかし、戦況は悪化し、霧島で共に戦った仲間の多くは生きて戻ることはなかった。後宮さんは「やらなきゃやられるという思いしかなかった。戦争は本当にむごいものだ」と語る。

 

 復員後は真珠養殖で成功したが、人生に満足できず牧師の道を選んだ。あの時から75年。安倍政権の下では、集団的自衛権行使を可能にする安全保障法制が整備され、自衛隊に危険を伴う「駆け付け警護」の任務が付与された。

 

 後宮さんは「慰霊は大事だが、それだけに終わってはいけない」と指摘。「戦争の名目は常に『国民の幸せのため』だった。安倍首相もそう言っており、再び戦争の道をたどらぬよう気を付けなければいけない」と警鐘を鳴らした。(20161227日配信)

右側と左側、保守と全体主義と言われる覇権国家が最近は色分けが出来る時代。保守と言っても人の話を良く聞いて改善を諮っていく人たちが多く、この様な人は全体主義は共産主義に通じると右翼の人が理解しているが「父つぁん」はこの様に認識!している。現職首相としては初めてハワイ・真珠湾を慰霊訪問。安倍元首相が真珠湾攻撃の地に訪れたこの地に時事通信社が採り上げたのが当時の日本兵の証言に眼を付けたのでしょう!。今は「武漢ウイルス」で世界中の眼がそれほど当時に思いを向けられない。

戦後は東京裁判で戦前の日本を断罪されて、連合国軍最高司令官総司令部。1945 年(昭和 20)アメリカ政府が設置した対日占領政策の実施機関。52 年講和条約発効とともに廃止。WGIP(War Guilt Information Program)とは、大東亜戦争後の昭和201945)年からサンフランシスコ講和条約発効によって日本が主権回復を果たした昭和27年までの7年間の占領期間に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策として行った、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画です。

更にGHQが証言者の気持ちとしては平和と戦争は連日、ネットニュースでも現在の状況を報告しています。この事を廻りの方々は認識されていますか?と記憶を喚起して危機管理を問題提起。そこでこのニュースを見逃した方の為に2016年のこの記事迄戻って頂いて時事通信社の記事でアップして於きます。ネット上のニュースから同じ様にアップしました。この等(ら)のニュースは報道姿勢が政治色では右寄り?と左側?社会面では日常の現在を謳歌しているが、当時の時代背景を考え、命を懸けて戦った国の為、愛する人や家族を守る思いを掛けて行かなければ為らない事を考えて欲しい。

「俺っち」は「靖国神社」には、当時の兵隊さんが命を懸けて国を守る為に日本の靖国神社の桜の下で会おうと、命を懸けて国を守る。しかし、終戦後「東京裁判」更にGHQが日本改造政策のWGIPで戦争後もこの記事の様な事を家族や子供にも言える環境じゃ無かったと胸に閉まって亡くなった人も多い筈でしょう?

そんな感じを持っているので「俺っち」の近くの神社は「愛宕神社」なので気持ちを込めて参拝をしたい。問題は、正面の「男?階段」はちょっとキツイノデすぐ右にある緩やかな「女?階段」で参拝したい。愛宕神社の下にトンネルが有って脇にエレベータでも行けるのは判っているけれど、利用する人がいれば同乗するんだけれど利用する人がいなければ何時までも待てない。「男階段」を登れば正面の愛宕神社の手前左に「手水所」があって、その時には参拝の儀礼で手水の水で口呑みしない様に手で漱(すす)ぐ様に、どうです見事なもんでしょう?

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