当時は間違いなく開催を世界がオリンピックの政治利用を考えていた。
1896年アテネオリンピック(1896年アテネオリンピック)は、明治29年(1896年)4月6日から4月15日まで(当時のギリシャのユリウス暦では3月25日から4月3日まで)、ギリシャのアテネで行われたオリンピック競技大会。近代五輪最初の大会として開催された。
古代オリンピックに感銘したピエール・ド・クーベルタン男爵により提唱。
大会参加者は男子のみであった。女子の出場は第2回オリンピック以降になる。
当時から4年毎だったか判りませんが?
古代オリンピックではギリシャ人たちも普段は互いに憎みあい、戦争を行い、殺しあっていたのだが、ゼウス神の聖地であるオリンピアの地でゼウス神にささげる祭典が開催される間だけは、考え方を一変させ、戦争を一時的に停止し(休戦。オリンピックの期間の停戦を特にオリンピック休戦と言う)昭和15年(1940年)の第12回オリンピックを東京に招致するという計画は、昭和5年(1930年)に当時の東京市長・永田秀次郎が提案したことにさかのぼる。永田が『日本書紀』の記述に基づく初代天皇・神武天皇の即位から2600年を迎える昭和15年(1940年)に、何か記念となる大きな行事を東京でできないかと考えていたところ、市の職員からオリンピック開催のアイデアを示されたのが発端だった。永田には、関東大震災の大正12年(1923年)ときに援助してくれた諸外国に復興した東京の姿を見せたいとの思いもあったという。当時の歴史を振り返ってみましょう。
オリンピックPRESS BACK NUMBER
81年前の“幻の東京五輪”、返上されたのは戦争だけが理由ではなかった「スタジアムもスケジュールもグダグダだった」
https://number.bunshun.jp/articles/-/848439
posted 2021/06/16
11:02
1940年東京五輪ポスター。左は公募に当選した神武天皇像をモチーフとした作品。だが天皇像使用を内務省が禁じ、38年に右の作品に変わった
text by
近藤正高Masataka Kondo
PROFILE &photograph by KYODO
東京五輪は開幕まであと1カ月余りとなり、中止や再延期を望む声も日増しに強くなっている。五輪の中止ということで思い出されるのが、戦前に招致に成功しながら、日中戦争の激化にともない、結果的に開催の2年前に返上された1940年の東京五輪だ。過去に中止になったオリンピックには、1916年のベルリン大会、東京の代替開催が決まっていた1940年のヘルシンキ大会、1944年のロンドン大会があるが、いずれも世界大戦のため中止を余儀なくされたもので、開催国が自主的に返上した例は夏季五輪では東京だけである。
そもそも返上が決まった1938年の時点では、東京から見れば戦争はまだ海の向こうの話で、条件さえ整えばオリンピックは十分に開催可能だったはずである。それが返上せざるをえなかったのは、開催に求められる条件に大きな支障が生じたからにほかならない。
じつは日中戦争が起こる前から、東京五輪はさまざまな問題を抱え、無事に開催できるのか懸念されていた。それは、新型コロナウイルスの感染拡大以前から騒動があいついでいた今回の大会と奇妙に共通する。したがって、約80年前の東京五輪がいかに返上されたのかを振り返ることで、今回の五輪の問題点もおのずと浮き彫りになるのではないか。以下、これまでに発表されている研究を参照しながら(参考文献は#3の終わりにあげる)検証してみたい(全3回の1回目/#2、#3へ)。
東京36票vsヘルシンキ27票
1940年の第12回オリンピックを東京に招致するという計画は、1930年に当時の東京市長・永田秀次郎が提案したことにさかのぼる。永田が『日本書紀』の記述に基づく初代天皇・神武天皇の即位から2600年を迎える1940年に、何か記念となる大きな行事を東京でできないかと考えていたところ、市の職員からオリンピック開催のアイデアを示されたのが発端だった。永田には、関東大震災(1923年)のときに援助してくれた諸外国に復興した東京の姿を見せたいとの思いもあったという。
招致活動は東京市が、大日本体育協会(体協、現・日本スポーツ協会。戦前は日本の国内オリンピック委員会を兼ねた)を巻き込む形で展開される。1940年大会の開催地はローマが最有力候補と目されたが、国際オリンピック委員会(IOC)委員の副島道正と杉村陽太郎(当時、駐イタリア大使も務める)が1935年、時のイタリア首相ムッソリーニを説得して、ローマ辞退の約束を取りつけた。こうした日本側の動きをIOCは批判し、開催地の決定を1年先延ばしする。しかし、日本側はIOC会長のラトゥールを1936年3月に日本へ招き、懸命のアピールを行った。その甲斐もあり、同年7月のIOCベルリン総会では、決選投票で対抗馬のヘルシンキの得票27に対し、東京は36票を獲得して開催地に決定したのである。
4年前の段階で、競技場が決まっていなかった
だが、開催決定の時点では、競技のプログラムが確定していないどころか、会期はいつにするのか、競技場をどこにするかさえも決まっていなかった。
とくに競技場の問題はこのあともずっとネックとなり、結果的に大会返上の要因となった。思えば、波乱続きの今回の東京五輪も、メインスタジアムとなる新国立競技場の計画が二転三転したことが最初のつまずきだった。ここでも2つの東京五輪は共通点を見出せる。
1940年大会の招致段階で東京市がメインスタジアムをはじめとする主要競技施設の建設地として考えていたのは、東京湾岸の7号埋立地(現在の江東区辰巳)だった。ここは東京市が以前より開発を進めていた土地で、同じく1940年に東京で開催が決まっていた万国博覧会の会場とあわせてオリンピック競技場を誘致し、開発の起爆剤としようというもくろみであった。しかし、湾岸に位置するため風が強くて競技に適さないなどの理由から、体協を中心に猛反対にあい、同案は招致委員会ではほとんど議論されなかった。
ちなみに東京湾岸は、東京が2016年のオリンピックを招致したときにもメインスタジアムの建設予定地に選ばれている。このときは晴海にスタジアムを新設する計画だったが、やはり風が強いなどの理由から招致失敗後に白紙に戻され、2020年大会では同じ場所に選手村が建設されることになった。
中央区の臨海地区に建設されている東京五輪・パラリンピックの選手村。大会後は1万人超が暮らす街「晴海フラッグ」となる(2020年7月撮影) ©KYODO
81年前の“幻の東京五輪”、返上されたのは戦争だけが理由ではなかった「スタジアムもスケジュールもグダグダだった」
1940年東京五輪の主会場に予定された駒沢競技場建設予想図 ©KYODO
副島道正伯爵。1871年生まれ。東京五輪を招致すべく1934年からIOC委員を務めた ©KYODO
1940年東京五輪の代替大会のひとつとして開催された第11回明治神宮国民体育大会のポスター。戦時色が色濃い ©KYODO
1940年東京五輪、幻のロゴ
「7つの候補地」…代々木練兵場も千駄ヶ谷もNG
話を戦前の東京五輪に戻すと、1936年3月に招致委員会がまとめた「招致計画大綱」では、メインスタジアムの設置場所に明治神宮外苑が選ばれ、既存の外苑競技場の敷地を拡張して新たな競技場を建設する案が示された。ただし、この大綱は同月のラトゥール来日に間に合うよう急遽作成されたもので、詳細な技術上の研究と検討を経たものではなかったという。また、場合によっては建設地の変更もありうるとの条件も付されていた。
結局、招致決定後に大会組織委員会が発足すると、メインスタジアムの場所と規模は一から検討し直されることになる。組織委員会内に設けられた競技場調査委員会が選定した候補地は、第1候補から順に代々木練兵場・千駄ヶ谷・青山射撃場跡・駒沢ゴルフ場・品川駅東側の埋立地・上高井戸・砧の7ヵ所だった。しかし、代々木練兵場の転用は陸軍の同意が得られず、千駄ヶ谷は土地買収が困難と判断された。ほかの候補地も土地の狭さや交通の便などから決定打に欠け、一向に話がまとまらない。招致決定から半年経っても競技場が決まらないという状況に、国内外の関係者やメディアからは、東京五輪が無事に開催できるのか危ぶむ声も上がるようになる。
そして外苑競技場案もダメに
1937年2月には、オリンピック開催能力の有無が判断されるIOCワルシャワ総会が4ヵ月後に迫っていたことから、メインスタジアムの建設地に再び神宮外苑が浮上し、外苑競技場を改造して充てることが仮決定する。だが、これにも内務省神社局から横やりが入る。神宮側に、明治天皇ゆかりの明治神宮外苑は「きわめて由緒ある場所」で「一木一石たりともゆるがせにできぬ」と頑なな態度をとる者がいたためだ。
組織委員会は内務省と再三折衝した結果、大会後の競技場の管理は神社局に委ねるなどいくつもの条件をつけられた上で、競技場の最小限の改造は認められた。しかし、そこで示された収容能力は5万数千人と、東京市が要望していた10万人以上を収容可能な競技場とは程遠いものであった。これでは市側はとうてい受け入れられない。こうして五輪開催が刻一刻と迫るなか、外苑競技場案も袋小路に入り込んでしまったのである。
「8~9月」か「9~10月」か…会期も決まっていなかった
1940年の東京五輪は、競技場の建設地ばかりでなく、会期もなかなか確定しなかった。
1937年6月のIOCワルシャワ総会では「8月24日~9月8日」と決まったが、あとになって、クリンゲベルグというIOCより大会の組織委員会に派遣されていた技術顧問が、会長のラトゥール宛てに、東京の8月末は雨が多く適切ではないので会期を変更したいと伝える。クリンゲベルグは再検討した上、翌年3月のIOCカイロ総会で会期を9月下旬~10月上旬に変更するよう提議し、協議された結果、最終的に「9月21日~10月6日」と決まった。気候を理由に大会の内容に変更が生じたという意味では、2020年大会でマラソンの開催地が札幌に変更されたのを思い起こさせる。
会期を決めるにあたり、気候以上に問題となったのが、東京での万国博覧会との兼ね合いだった。IOCは、オリンピックが万博の余興と見られるのを危惧し、会期が重複しないよう日本側に再三にわたり釘を刺していた。しかし、ワルシャワ総会で東京五輪の8月24日開幕が決まった時点では、じつは万博の会期終了は8月31日となっており、会期が8日間も重なっていた。このことはカイロ総会でも問題となったが、このとき出席していたIOC委員の嘉納治五郎は、万博は8月24日に終了すると述べた。あとで嘉納が嘘をついたのに気づいたラトゥールは、日本側への不信感を募らせることになる。ただ、結果的にオリンピックが9月開幕となったため、万博との重複問題自体は解決されたのは幸いであった。
「フェンシング」と「近代五種」問題
プログラムについても問題が生じた。競技種目には当時の日本では馴染みの薄いものも多かった。
とくに日本側が実施に難色を示したのがフェンシングと近代五種競技だった。組織委員会ではいったん、この2競技はIOCの了解を条件にプログラムから外すことが決まる。しかし、これらはIOCがオリンピックで必ず実施するものと定めた公式競技だった。そのため、IOCだけでなく、国際フェンシング連盟からも激しい反発を受け、日本側は決定を撤回せざるをえなかった。
競技場の場所や会期など開催の前提となる事項が、オリンピックの招致決定後も長らく確定せず、準備が後手に回ったのは、東京市・体協・組織委員会など主催する側の足並みがなかなかそろわなかったことにも大きな原因がある。組織委員会には政府や軍部からも委員が選ばれ、挙国一致で大会の準備にあたることにはなったが、もともと国側は東京五輪の開催に消極的だった。この傾向は1937年7月に日中戦争が起こるとますます顕著となり、最終的に大会返上へとつながっていくのである。
(【続きを読む】「ギリギリだと日本は五輪史上に汚点を残してしまう…」“幻の東京五輪”、2年前の夏に中止を決断させた男の正体 へ)(今回の記事の全3回の1回目/#2、#3へ)。
57年前も東京五輪の会場が駒沢で競技場を考えていたんですね。
開催を断念した代替えに第11回明治神宮国民体育大会のポスターは戦時色濃厚!
第一次世界大戦で大正5年(1916年)のベルリン大会は開催中止となったが、大正9年(1920年)のアントワープ大会から再開され初めてオリンピック旗が会場で披露された。この時期は、選手村・マイクロフォンの使用が大正13年(1924年)、冬季大会の開催が同じ年(1924年)に、16日前後の開催期間を昭和3年(1928年)、聖火リレーが昭和11年(1936年)など、現在の大会の基盤となる施策が採用された時期である。
この時期からオリンピックは万博の添え物という扱いから国家の国力を比べる目安として国際社会から認知されるようになり「国を挙げてのメダル争い」が萌芽した。
「俺っち」もメダルを貰っても、どこかの市長がかじって顰蹙を買っていましたが食べられないので興味も沸きませんが、この様子は大正13年(1924年)のパリ大会を描いたイギリス映画『炎のランナー』に詳しい。開催国のほうもオリンピックを国際社会に国力を誇示する一大イベントだと認識するようになりオリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者が現れ、昭和11年(1936年)のベルリン大会では当時のナチス政権は巧みに国威発揚に利用した事はよく知られています。
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