2021年2月7日日曜日

【100年の森 明治神宮物語】皇后(下)時代を先取りした救護の精神

 皇居から高輪の仙洞(せんとう)仮御所に移られて、昨年に上皇さま誕生日の1223日に87歳のお誕生日を迎えられた。

上皇、上皇后殿下は昨年1124日ではありますが健(すこ)やかで穏(おだ)やかなご様子です。

 

皇居の仙洞御所が完成すればそちらに戻られるようです。

現在の高輪(台)仙洞仮御所は旧高松宮邸で「父つぁん」の学び舎(まなびや)から近いので廻りの地形に詳しいそうです。

 

仙洞仮御所は旧高松宮邸ですが、高松宮宣仁親王殿下は大正天皇と貞明皇后の第3皇男子。昭和天皇は兄(長兄)、上皇は甥、今上天皇は大甥にあたられます。

 

そして、今日は恐れ多いですが「俺っち」が、明治天皇皇后様の慈善活躍のお話を聞いて記事を見付けた処の中にもろに「俺っち」が今いる場所に「慈恵会病院」「日本赤十字本社」が出ていたので是非近いので話題を「父つぁん」にブログ掲載して欲しいとお願いしました。






  2021.1.22 09:00ライフ学術・アート 100年の森 明治神宮物語


100年の森 明治神宮物語】皇后(上)女子を鼓舞した「みがかずば」

https://www.sankei.com/life/news/210122/lif2101220009-n1.html

 



  

昭憲皇太后の御歌の色紙(右端、複製)などが展示されたお茶の水女子大の歴史資料館 =東京都文京区(鵜野光博撮影)



 

 みがかずば玉もかがみもなにかせん

 学びの道もかくこそありけれ

 

 お茶の水女子大(東京都文京区)の校歌は、昭憲皇太后が明治9年2月、前身の東京女子師範学校(後の東京女子高等師範学校)に贈った御歌(みうた)に曲が付けられたものだ。親筆とされる色紙は学内に保管され、その複製が大学本館1階にある歴史資料館に展示されている。

 

 色紙は当時、校宝とされた。大正から戦中にかけては生徒が特別な機会に拝観を許され、卒業生には写真版の「御歌写(うつし)」も交付された。同大研究協力員の奥田環(たまき)さん(59)が10年ほど前、拝観した卒業生たちに会って印象を尋ねたところ、「とにかく、ありがたかったのよ」という答えが口々に返ってきたという。

 

 大正12年の関東大震災で校舎は全焼したが、色紙は死守された。「学校の精神を体現するもので、アイデンティティー形成の一助になっていた」と奥田さん。ただ、そうした教育は敗戦とともに途絶えた。同大では現在、「お茶の水女子大学論」で校史の一環として昭憲皇太后に触れるが、「以前の『御遺徳を学ぶ』のとは全く違う」と奥田さんは話す。



  

東京女子師範学校に入る昭憲皇太后を描いた「女子師範学校行啓」(矢澤弦月画、聖徳記念絵画館所蔵)

 

洋装の先駆者にも

 

 明治神宮の御祭神である昭憲皇太后は、明治時代に進展した女子教育で大きな存在感を放っている。

 

 自らも明治4年から学者の進講を受け、8年の東京女子師範学校開校を前に、手元から5千円の大金を贈った。同年1129日の開校式に行啓(ぎょうけい)し、「全国へ女子教育が普及することを祈願する」という趣旨の令旨を与え、翌年に「みがかずば」の御歌を贈った。その後も11回にわたって足を運んで授業などを見学し、付属の小学校や幼稚園にも赴いている。

 

 1811月には華族女学校(宮内省所管)の開校式に行啓。こちらには唱歌となった「金剛石」「水は器」の2編を贈っている。現在の学習院中等科・高等科では、副読本「古文の基礎」に御歌が収められ、生徒たちの教養の一部となっている。

 

 女子教育への熱意の一方で、皇后として初めて外交の舞台に立ち、洋装の先駆者にもなった。

 

 明治初期まで天皇の外賓との会食に皇后は同席しなかったが、19年5月、イタリア国皇孫との会食に初めて和装で同席。6月に洋装が宮中に導入され、7月30日、華族女学校の卒業式に初めて洋装で行啓した。8月10日には皇后として初めて洋装で外国人と接見。やがて宮中晩餐(ばんさん)会が鹿鳴館に取って代わることになる。

 



  

昭憲皇太后像(矢澤弦月画、お茶の水女子大学提供)蔵)

 

「匂うような美しさ」

 

 東京女子師範学校開校式への行啓について、婦人運動家、山川菊栄の「おんな二代の記」(昭和47年)が、生徒代表としてその場にいた母、青山千世(ちせ)の記憶を書きとどめている。「皇后の髪はおすべらかし、お雛(ひな)様の着つけのように美しく重なった白襟の上に緋ぢりめんのきもの」などと服装を描写し、「まだ二十代のうら若い皇后はまことに匂うような美しさ」だったという。

 

 終了後にお供の女官が青山らを招き、皇后が生まれて初めて学校というものを見て大変喜んでいたこと、女生徒たちが男子が着用する小倉袴(ばかま)を着けていたため、皇后も女官たちも笑いをかみ殺すのに骨が折れ、御所へ帰るなり心ゆくまで笑ったことを話した。一方の生徒らは、皇后が十二単(じゅうにひとえ)にハイヒールを履き、室内でこうもり傘を差した姿を思いだし、昼間の緊張の反動で夜の寄宿舎が「笑いの渦に湧き返った」という。

 

 昭憲皇太后は当時26歳。名前は美子(はるこ)皇后だった。若き「国母」の笑顔をしのばせるこの逸話について、「お茶の水女子大学百年史」は「当時はまだそれほど神格化されていなかった若い皇后を中心とする宮中のおおらかな気分と、今と変らない女生徒たちの若々しい雰囲気を伝えて、まことにほほえましいものがある」と記している。=毎週金曜掲載

 

すでに140余年以上前のお話でしたが、明治時代に明治10年3月、九州で西南戦争が勃発した翌月の「昭憲皇太后実録」には、昭憲皇太后の女子教育とあらゆる救護に関して思いを伝えている記事に続きます。

 

今でも世界から上皇殿下の相次ぐ招請がある様です。平成元年の「大喪の礼」や、2年の「即位の礼」では、直接訪問を招請した中國以外にも参列した欧州各国の首脳が、当時天皇に即位されたばかりの上皇さまの招待を日本政府に打診していた。

 

昨年1123日公開の外交文書には、昭和天皇の「大喪の礼」翌年の「即位の礼」で平成天皇になられて時ですから既に、30年以上も前から現在の上皇殿下へのラブコールが相次いで働きかけていたことになります。この招請は未だに継続して生きているのでしょう?その人気ぶりが記録されていたそうです。

 

続いて次の記事で婦女子教育や「俺っち」が今いる場所に「慈恵会病院」「日本赤十字本社」が出ていたのでこの2ヶ所が近いので話題を見て貰います。






  2021.2.5 09:00ライフ 学術・アート


100年の森 明治神宮物語】皇后(下)時代を先取りした救護の精神

https://www.sankei.com/life/news/210205/lif2102050004-n1.html

 



  

明治35年の日本赤十字社創立25周年記念式典に臨席する美子皇后を描いた「赤十字社総会行啓」(湯浅一郎画、聖徳記念絵画館所蔵)

 

 明治10年3月、九州で西南戦争が勃発した翌月の「昭憲皇太后実録」には、次のような記述がある。

 

 「皇后並(ならび)に皇太后は戦闘によりて生じたる多数の負傷士卒に深く御哀憐の情を垂れさせたまひ、其(そ)の治療に用ふる綿撤糸(編注・ガーゼ、以下同)を御手づから製したまひ、又(また)女官をも之に従事せしめらる」

 

 美子(はるこ)皇后(昭憲皇太后)と英照皇太后は、ガーゼ100反分のほか、白木綿、ぶどう酒などを負傷した兵士に届け、さらに「傷つきて病床に在る者には官賊(敵味方)の別なく用ひしめよ」と指示したという。

 

 美子皇后が情熱を注いだ対象の一つに社会福祉への支援がある。「明治日本のナイチンゲールたち」(今泉宜子著、扶桑社)などによると、西南戦争の際、後に日本赤十字社となる博愛社が兵士救護のために設立され、美子皇后はこの支援を一貫して続けた。戦時に限らず、災害時の救護や平時の備えにも目を配った点が時代を先取りしており、例えば21年の磐梯山噴火では被災者救護を日本赤十字社に命じ、同団体による天災救護活動の始まりとなった。

 

 貧しい人々の医療のため設けられた有志共立東京病院(東京慈恵医院)の総裁にも就任した。国際的に有名なのは「昭憲皇太后基金」だ。45年にワシントンで第9回赤十字国際会議が開かれた際、「平時における赤十字救護事業を奨励するため」と10万円(現在の約3億5千万円)を寄付した。これらも、奈良時代の光明皇后が施薬院で示した皇室の伝統を受け継ぐものだった。

 



  

明治天皇が美子皇后のために設けた隔雲亭(空襲で焼失後に復元)=東京都渋谷区(飯田英男撮影)

 

明治天皇の愛情深く

 

 美子皇后は左大臣、一条忠香(ただか)の三女として生まれ、明治元年12月、十代の若さで皇后となった。明治天皇との間に子供はなかったが、晩年の美子皇后に仕えた山川三千子は「女官 明治宮中出仕の記」(講談社学術文庫)で「(明治天皇の)御愛情は深く、何かとお心使いを遊ばされ」と記し、鼻筋の通った皇后を「天狗(てんぐ)さん」の愛称で呼び、皇后が風邪気味で御所に姿を見せないと、すぐにお見舞いの使いが来たと振り返っている。また、後に明治神宮が建つ代々木御苑に、皇后のためにご休息所「隔雲亭(かくうんてい)」を33年に建ててハナショウブを植えさせ、皇后が9回もここに足を運んだことは、「記憶」の章に書いた通りだ。

 

 45年7月、明治天皇は病のため崩御した。美子皇后も皇太后となって2年後の大正3年4月、狭心症のため崩御している。最初の発作の後、眠りから覚めて女官たちに「いま私が急いで桃山の明治天皇様のおそばに行こうとするのに、皆がまだ成らせられてはいけませんと止めるので、しかたなく引返したが、三十年後の日本の姿は見たくないものを、早い方がいいね」と話したという(前掲書)。桃山とは、明治天皇の陵墓がある京都市伏見区の地名だ。

 

100年後も実る熱意

 

 明治天皇を祭る明治神宮は、当時すでに現在地での造営が内定しており、御祭神は明治天皇と昭憲皇太后の2人となった。明治神宮によると、本来なら追号は「昭憲皇后」とすべきだったが、当時の宮内大臣が皇后に改めずに大正天皇に上奏し、裁可されてしまったという。大正の貞明皇后、昭和の香淳皇后と称号が違う背景には、こんな事情がある。

 

 前述の昭憲皇太后基金は、設立後も皇室などからの寄付金によって「エンプレス・ショーケン・ファンド」として存続し、命日の4月11日に毎年配分が決められている。昨年はナミビアなど14ヵ国の赤十字活動に総額約4400万円の支援が行われ、累計は16億円を超えた。自ら奨励した女子教育、視察の先頭に立った近代産業が、100年後の日本で実っていることは言うまでもない。その昭憲皇太后の陵墓は、桃山の明治天皇のすぐそばに造営され、御魂は明治神宮で手を合わせた先に鎮座している。=毎週金曜掲載

 

「慈恵会病院」の構内で「父つぁん」が「昭憲皇太后」の貧しい人々の医療のため設けられた有志共立東京病院(東京慈恵医院)の総裁にも就任されました。


国際的に有名なのは「昭憲皇太后基金」業績を本館?の一般の人や先生が通行する廊下に掲示しているのを見たと言っていますので「俺っち」も確認したいと思うけれど「俺っち」が廊下を捜し回っていると警備の人に見つかると不味(まず)いから「父つぁん」が写真に撮って見せて貰うのが良いと思うので我慢する事にします。

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