2020年9月11日金曜日

三船殉難事件~忘れてはならない終戦後の悲劇

 日本が終戦を迎えた815日。

一カ月近く遅れましたが822日にブログ掲載をして置きたかったのが今日に為ってしまいました。

日本人はこの日を終戦と認識して居ますが、当時の戦争当事国では確かにこれを境に武力による戦闘は終わって居ました。

戦勝国も敗戦国も武器を降ろして戦地から引き上げる人に兵士も民間人も帰国の思いしかなかった筈です。

 

中国大陸では日本への帰国に際して我が国への手段としては陸路で波止場の船の帰還船に乗れなければ帰国が叶いません。勿論乗船にも色々なチェックを受けて乗船が出来れば後は我が日本の陸地を踏みしめる迄の休息と安堵が交錯して居たのでは無いだろうか?

 

確かに武器を降ろした兵士も民間人も帰国出来る思いで争いの無い日常を得られたと思って居たのに、昭和20(1945)822日、すなわち日本が連合国軍に対して降伏を表明した815日から一週間後、三船殉難事件が発生しました。日本人としては忘れてはならない事件です。822日の終戦後の悲劇を絶対に忘れてはいけない。

 



 20170822日 公開


三船殉難事件~忘れてはならない終戦後の悲劇

https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4243

 

8月22日 This Day in History



  

三船遭難慰霊之碑(北海道留萌郡小平町鬼鹿海岸)

 

今日は何の日 昭和20822

 


小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸。三船殉難事件

 

昭和20(1945)822日、すなわち日本が連合国軍に対して降伏を表明した815日から一週間後、三船殉難事件が発生しました。日本人としては忘れてはならない事件です。

 

この日、北海道留萌沖で、樺太からの引揚者(老幼婦女子中心)を乗せた3隻の引揚船が、ソ連の潜水艦に攻撃され、2隻が沈没し、1708人以上もの人々が犠牲となりました。815日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印意思を連合国へ伝達、翌日には各軍へ停戦命令の布告と武装解除を行ないました。これを受けて連合国のアメリカ、イギリスは即座に戦闘行為を停止しましたが、それをまったく無視したのが、89日に不可侵条約を一方的に破って参戦したソ連です。十数万もの大軍で満洲に雪崩れ込んだ上、武器を持たない一般人相手に殺戮、暴行、略奪の限りを尽くしたことはよく知られます。

 

ソ連軍は同時に、北方の樺太、北千島にも攻め込みました。ソ連の狙いは軍事的混乱の中で北海道にまで侵攻し、これを我が物として連合国に認めさせることであったとされます。まさに火事場泥棒的な行為というより他ありません。この状況に日本政府は、樺太の港に船を集め、人々の引揚げを促しました。数万の人々が港に押し寄せる中、大津敏男樺太庁長官の判断で、高齢者・女性・子供を優先することにし、大泊港の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸の3隻の引揚船に分乗させ樺太を脱出、北海道を目指します。

 

まず小笠原丸(1400t)には約1500人が乗船し、大泊から稚内に到達しました。そこで約半数が下船し、約700人を乗せて小樽に向かう途中、822日の午前420分頃、増毛沖の海上で国籍不明の潜水艦の魚雷攻撃を受けて、撃沈されます。乗員乗客638名が死亡、生存者は僅か62名でした。なお浮上した潜水艦は、無抵抗の人々に銃撃を加えています。

 

続いて午前513分頃、大泊から約3600人を乗せて小樽に向かっていた第二号新興丸(2700t)が、留萌北西沖に差し掛かったところ、突然に魚雷攻撃を受けました。同船は回避を試みますが、右舷に一発命中します。その直後、二隻の潜水艦が浮上し、銃撃を加えてきました。しかし第二号新興丸は単なる輸送船ではなく、12cm単装砲2門、25mm機銃を連装4基、単装6基を備えた特設砲艦でした。攻撃を加えてくる潜水艦に対し、民間人の協力を得て反撃します。第二号新興丸の攻撃により、潜水艦一隻が被弾し、潜航したものの大量の油が海面に浮いたといわれます。反撃と、通報によって飛来した日本軍の水上偵察機の掩護もあって、潜水艦はそれ以上の攻撃はせず、第二号新興丸は留萌港にたどり着くことができました。 しかし、第二号新興丸の犠牲者数は死者・行方不明者は400余人とされ、遺体が確認できただけで298人であったともいわれます。

 

そして午前952分頃、約780人を乗せて大泊から小樽に向かっていた泰東丸(880t)が、留萌小平町沖西方25kmの海上で、浮上した潜水艦の砲撃を受けました。 一発被弾すると、泰東丸の船員たちは白いシーツを掲げ、潜水艦から見えるように大きく振ります。「降伏」を意味する白旗でした。ところが潜水艦は、これを全く無視して砲撃を続けました。武装していない貨物船の泰東丸は、なす術もなく標的とされます。 やがて泰東丸は10数発を被弾して、船体が大きく傾き、船内は血まみれの死体や重傷者が折り重なりました。重傷を負っていない者は海に飛び込み、脱出を図ります。やがて泰東丸は左舷を下に海中に没しました。667名が死亡したとされます。

 

事態を知った沿岸の漁師たちは「こんなことが許されてたまるか」と、潜水艦の攻撃を受ける恐れがあるにもかかわらず、海に船を出して救助にあたり、遺体を回収して弔いました。これらの事件を引き起こした潜水艦は、公には「国籍不明」とされています。しかし、米英軍が戦闘を停止している中、この海域で作戦活動をしていたのが、ソ連海軍第一潜水艦隊所属のL-19L-12であったことが、ソ連の記録から判明しています。しかもウラジオストクに帰還したL-12のコノネンコ艦長は、ソ連で英雄扱いを受けました。一方、L-19は行方不明・未帰還となっており、第二号新興丸の攻撃で損傷したことが原因である可能性もあります。停戦意思を通達している国の船舶に対しての一方的な攻撃・撃沈、また白旗提示を行なった船舶への攻撃は、国際法及び戦時国際法に明らかに違反する行為です。しかし、ロシア政府はいまだにこの事実を認めようとはしません。

 

終戦後、1708人もの日本人が一方的に「殺戮」された事実は、まず日本人として記憶に留めるべきことです。そして、これは日本人に落ち度があったからではありません。 犠牲者の方々を悼むとともに、この悲劇からいま日本人が学ぶべきことは多いと感じます。

 

日本人は815日のこの日を終戦と認識して居ますが、当時の戦争当事国では確かにこれを境に武力による戦闘は終わって居ました。

三船殉難事件を我々は記憶している。帰還船の殉難と中國大陸で本来は有っては為らない戦闘行為?戦争法規とされる「ハーグ陸戦条約」にも民間人を死傷しては為らないとされて居るのに当時のソ連は完全無視です!

 

当時の中國政府としては蒋介石率いる国家であり、現在の共産党が率いる中國では有りません。内戦の末に今の台湾に追い遣られて?国連には戦後処理のドサクサに紛れて当時のソ連の後押しで国共内戦で昭和20年(1945年)に日本が大東亜戦争(WW2= 第二次世界大戦)で敗北し、ソ連のセミョーノフが捕らえられ、中國国内の日本軍隊が全面降伏すると、それまでの中國国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。

 

内戦を回避したいアメリカ等の意向もあり、毛沢東と蔣介石の会談による双十協定などでの妥協が図られたが、結局は国共内戦に突入し、満州を占領したソ連の後押しにより東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的に国民政府を打倒して昭和24年(1949年)101日に中華人民共和国を建国した。国民政府は根拠地を台湾(中華民国政府)へ移転した。

毛沢東の跡を継ぐ現在の習近平共産党は「国連」に於いては戦勝国でも無く本来は台湾に逃れた蒋介石が国連を脱退する時に拒否権を行使しても良かった筈です。



 三船殉難事件 出典:

 https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1346524

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』三船殉難事件

 

確かにこの事件は今でも当時の厄介なソ連の仕業ではあるがソ連解体後のロシアの問題でもあると思いますが?この件では謝罪を求める位の強い態度も時には必要かも。日本国としての慰霊祭を報道機関のどこも採り上げないですね?

 



  2018/08/29 菅野 直人

奇跡の海戦史「戦後もっとも長く現役だった徴用商船~三船殉難・第二号新興丸帰還す」

https://sabage-archive.com/blog/archives/16516

 

1945815日、ポツダム宣言受諾を宣言する玉音放送によって太平洋戦争は終結したはずで、実際アメリカやイギリスなど西側連合軍の攻撃は止んでいましたが、一方でソ連軍は侵攻をやめず、日本軍も停戦を受け入れてもらえるまで自衛戦闘を続けていました。その最中の822日、ソ連海軍のものとみられる潜水艦と南樺太からの引揚船が交戦する『三船殉難事件』は起きました。

 

ソ連軍停戦せず。自衛戦闘を続行する日本軍



  

194589日、ソ連は日本へ宣戦布告して満州(現在の中国東北部)に侵攻を始め、日ソ戦が始まりました。

 

当時の日本は太平洋戦争末期。関東軍など中国大陸各地の日本軍部隊も南方に引き抜かれ、各所で撃破、あるいは日本本土の連絡線を絶たれて孤立しており、マリアナ諸島、硫黄島、沖縄が陥落するに至って本州など主要4島すら丸裸になっている状態で、とても対ソ戦どころではありません。

 

それでも根こそぎ動員で頭数だけは揃えた満州の日本軍でしたが、ヨーロッパ戦線でドイツ軍を撃破したソ連軍に対抗できるわけも無く、各所で避難民もろとも揉み潰され、あるいは戦線を突破されていきました。

さらに、それまで中立国だったソ連に連合軍との和平を仲介してもらえるよう期待しており、そのために本土決戦まで粘ろうとしていた日本にとってはもはや戦争継続の意味が消滅した瞬間でもあります。

 

ソ連参戦翌日の810日には、連合軍(参戦によりソ連も加わった)が無条件降伏を求めた『ポツダム宣言』受諾を決定、中立国経由で連合軍に通知、815日に昭和天皇による『玉音放送』が行われた時点で、終戦が確定しました。

 

しかし、戦争終結までに実効支配範囲を少しでも広げたいソ連は、アメリカやイギリスなど西側連合国とは対照的に815日以降も戦闘を継続し、日本軍が自発的に武装解除して停戦するのを待たず、攻撃して占領する道を選んだのです。

 

玉音放送を聞いて戦争は終わったものと考えていた各地の日本軍は、停戦の軍使を惨殺してまで侵攻してくるソ連軍に戸惑いながらも、認められた範囲での『自衛戦闘』を継続しました。

何しろ、相手は武装解除しに来るのではなく、砲撃や爆撃の支援を受けつつ、本格的に撃ちまくり進撃してくるのですから、否応がありません。

 

南樺太発・避難民を逃がせ!

 

満州侵攻から若干遅れた811日、北樺太から国境を越えたソ連軍によって樺太戦は始まりました。

 

進撃ルートが狭く一度に押し寄せる戦力が限られた事もあり、南樺太を守備する第88師団と現地住民による国民義勇戦闘隊は健闘したと言えますが、何しろ許されているのは自衛戦闘のみであり、積極的な反撃が控えられた事から、次第に劣勢となります。

 

それでも北海道が宗谷海峡を挟んで目と鼻の先な事から避難民の疎開は積極的に進められ、疎開列車やトラックで集められた避難民が南部の真岡や大泊、北斗などから海路脱出させたのです。

脱出に使われた船舶は従来から北海道(稚内)と南樺太を結んでいた稚泊連絡船や稚斗連絡船のほか、居合わせた貨物船、商戦改造の特設砲艦、さらには海防艦など戦闘艦まで投入され、南樺太から76千人ほどを避難させます。

 

日本軍は823日に武装解除を終えるまで自衛戦闘を続けて避難の時間を稼いだとはいえ、基本的には攻撃されなければ反撃しないというスタンスでしたが、ソ連軍は白旗に赤十字旗まで上げた救護所を爆撃するなど、徹底した攻撃を加えてきました

 

もちろん、南樺太から逃れようとする避難民を乗せた艦船にも、容赦ない攻撃が加えられたのは、言うまでもありません

 

三船殉難、第二号新興丸反撃す

 

玉音放送後も攻撃を止めないソ連軍から住民を逃がすため、大泊から出航して北海道へ向かった船舶に対し、ソ連軍は空爆のほか潜水艦で無差別攻撃を行いました。

これらは結果的に1度も身分を明かして停船指示や臨検も何も行わなかったため、『国籍不明の潜水艦』とされていますが、当時この海域で日本軍の船舶を攻撃する船舶などソ連海軍のものしかありません。

 

引揚船の方も、目と鼻の先の稚内ではさらにソ連軍が攻めてくる恐れもあり、乗客の避難民はほとんどがより遠い小樽などまで乗船することを望み、結果的にはそれがソ連潜水艦の攻撃を招き、3隻の船が攻撃を受けました。

 

822日午前4時、小樽に向かっていた逓信省の海底ケーブル敷設船『小笠原丸』が突然潜水艦の雷撃を受け、600人以上の乗員乗客もろとも沈没。

同日午前952分には、ソ連潜水艦『L-12』とみられる国籍不明潜水艦が浮上しているのを貨物船『泰東丸』が視認、無警告でいきなり砲撃してきたため、戦時国際法に従い白旗を上げるも砲撃はやまず、同船は撃沈されて乗員乗客667人が死亡しました。

 

唯一抵抗したのは、海軍に徴用されて特設砲艦となっていたため、武装していた『第二号新興丸』。

 

820日夜に避難民約3,600人を乗せ大泊を出航、小樽に向かっていた同艦は822日午前5時過ぎにソ連潜水艦『L-12』および『L-19』とみられる国籍不明艦を発見直後、無警告で放たれた魚雷1本が命中、すぐ沈まないとみるや砲撃を加えてきます。

 

しかし、『第二号新興丸』は商船改造とはいえ、仮にも武装した戦闘艦です。この時点では既に自衛戦闘を含む全ての戦闘が禁じられていたとはいえ、相手は『国籍不明の潜水艦』ですし、攻撃してくるからには身を守らねばなりません。

 

避難民に300人前後の死者・行方不明者を出しながらも、その避難民からの協力も得て反撃を開始、12cm砲や25mm機銃で応戦すると『国籍不明の潜水艦』は思わぬ反撃に動揺したのか去って行きます。

どうにか沈没を免れた同艦は、救援要請に応えて飛来した日本海軍の水上偵察機が援護してくれたこともあり、どうにか留萌港に入港することができました。

 

潜水艦を『撃沈』? 戦後も長く現役にあった第二号新興丸

 

三船殉難の引き起こしたとみられるソ連潜水艦のうち、『L-19』は帰還しませんでした。

後に宗谷海峡で機雷に接触して触雷沈没したとされましたが、その最期は判然としないことや、第二号新興丸の反撃で命中弾が目撃されていることから、帰路に浸水が拡大してダメージコントロールなどに失敗した結果、沈没した可能性も。

 

その場合、第二号新興丸は『日本海軍で最後に撃沈戦果を挙げた艦』となりますが、ソ連がその崩壊後のロシア時代も含め、この攻撃を公式に認めていなかったことや、日本側も戦闘行為を禁じた後のことであり、『幻の海戦』扱いになっています。

 

なお、最後までソ連軍に抵抗して帰還した第二号新興丸は、その後修理を受けて武装を撤去し、復員輸送艦となり、19468月に徴用解除されると民間船に戻ったため、軍艦としての賠償引渡や解体を免れ民間船舶に復帰。

戦後の樺太・千島からの日本人引き上げに従事した後、船主を変え名前を変え、機関をディーゼルエンジンに換装するなど近代化改装を経て現役を続け、最後はパナマ船籍で華僑の保有する商船として、1992年に船籍を抹消されました。

 

少なくとも1975年頃までは普通に運航されていたようで、どの時点で解体されたのか、あるいは解体されず今でもどこかにその姿を残しているのか判然とはしませんが、太平洋戦争を生き延びた日本の商船としては、最後まで商業航海に使われていた船とされています。

 

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

 

船殉難事件を我々は記憶している。帰還船の殉難と中國大陸で本来は有っては為らない戦闘行為?戦争法規とされる「ハーグ陸戦条約」にも民間人を死傷しては為らないとされて居るのに当時のソ連は完全無視です!

若者にとって学校でも教わらずにこの様な事件を後世に伝える事も無く為ってはいけません。

政府も韓国との慰安婦や徴用工で忙しいかもしれませんが、この様な戦中戦後の事象は風化して行くので是非掘り起こしの件もしっかりと遣って貰いたい。激戦地に残された遺骨も関係者の高齢化が進んで居るので、遺骨回収事業も予算を取れるように頑張って欲しい。

 

次の記事も戦争の手段として北朝鮮が兵士や軍事兵器準備に関係する問題を採り上げて於きます。

 


 全国新聞ネット 2020/04/12  07:00

人類が自滅する可能性を拡大する脅威 ブリクス元IAEA事務局長に聞く NPT発効50

https://www.47news.jp/47reporters/4709837.html

 

 世界の核秩序の礎を担ってきた核拡散防止条約(NPT)の発効から50年。「核の番人」と呼ばれる国際原子力機関(IAEA)のトップとして核を巡る国際政治の現実を見つめてきたハンス・ブリクスIAEA元事務局長(91)は共同通信のインタビューで、核保有五大国による軍縮停滞を批判、国際情勢の緊張緩和と核問題解決に向けた外交への尽力を求めた。(共同通信=土屋豪志)

 



 

© 全国新聞ネット 2020年2月26日撮影  ストックホルムの自宅で、インタビューに答えるハンス・ブリクス元IAEA事務局長(共同)

 

 動かぬ核保有国

 

 世界は二つのことに同時に脅かされている。深刻化が続く核兵器の脅威は、私たち全員に急速な自滅を突きつけている。人類と文明の自滅だ。そして気候変動が、緩慢な自滅を突きつけている。私は長く軍縮と核に携わってきたが、(世界の環境保全の礎と言われる)国連の人間環境宣言(1972年採択)の起草にも関わった。巨大な国際世論を覚醒させるのは簡単ではないが、核と気候変動、どちらも目を離してはいけない。

 

 核拡散防止条約(NPT)で一貫して問題なのは、非核兵器保有国が核兵器から距離を取り、IAEAの査察体制を固守してきたのに対し、米国、ロシア、英国、フランス、中国の核保有五大国は(NPT発効から)50年間、有意義な核軍縮交渉に向けて動かなかったことだ。それどころか、核兵器の近代化や再軍備が行われている。NPTで想定されているのとは逆の方向に進んでいる。

 

 さらには、成立していた合意の破棄という後退も起きている。ブッシュ米政権(200109年)は米ロの弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約から撤退、トランプ米政権は新戦略兵器削減条約(新START)の延長に後ろ向きに見える。偵察を認め合い透明性を高めていた多国間のオープンスカイ(領空開放)条約の維持も危ういと指摘され、米国では包括的核実験禁止条約(CTBT)の署名撤回も議論されている。もし核実験が再開されれば世界中に広がるだろう。

 



 

© 全国新聞ネット 米ホワイトハウスで、インタビューに応じるトランプ米大統領(ロイター=共同)

 

 トランプ米政権は軍拡を抑制する多国間、2国間の合意を排除しようとしている。規範に基づく国際システムの構築に米国が果たしてきた極めて建設的な役割を考えると、その破壊者のようになっていることを残念に思う。われわれは核保有五大国が、軍縮に着手しないことを批判し続けるべきだ。

 

 交流と緊張緩和

 

 核軍縮交渉を真に促進するのはデタント(緊張緩和)だ。ウクライナ、中東、極東情勢を見ても、デタントに向けた努力はこれといったものがない。ただ、西側とロシアの行き過ぎた冷え込みに米政権などの一部は気付いている。かつて活発だった米ロの科学者や軍などの交流は非常に落ち込んだ。デタントは交流を増やすことから始めるべきで、その声はワシントンにもある。

 

 核保有国に何を要求するか。第1は米国などのCTBT批准。米国などがCTBT批准の意思を示したことで、非核保有国は1995年のNPT再検討会議で条約の無期限延長を受け入れた。だが米国は批准できておらず、非保有国の正当な期待を裏切っている。

 

 第2には、「核戦争に勝利はなく、決して戦ってはならない」という米国とソ連(当時)の指導者レーガン、ゴルバチョフ両氏の言葉の再確認が求められている。米国にその意思がないことを心配しているが、この二つが最重要だ。

 

 次の再検討会議が不首尾であっても、世界が終わるわけではない。だが、デタントの進展は見込めなくなる。また、差し迫ったものではないが、核兵器拡散のリスクがある地域もある。サウジアラビアはイランが核保有を目指すなら自国も行うと言っている。エジプトも同じ事をするに違いない。トルコの大統領も核兵器開発を示唆しており、リスクを無視できなくなっている。



 

© 全国新聞ネット 198712月、ホワイトハウスでINF廃棄条約に調印するレーガン米大統領(右)とゴルバチョフ・ソ連書記長(ロイター=共同)

 

 イランと北朝鮮

 

 国連安全保障理事会の決議で裏打ちされたイラン核合意によって、IAEAによる広範な検証が始まり、世界のどの国よりも詳細、確実にイランの核活動を見られるようになった。2018年に米国は一方的に離脱し、安保理での約束を破った。国連の権威を損ねており、非常に深刻なことだ。これに対してイランは合意の履行を段階的に停止し逸脱をしているが、私は合法的行為だとみている。そうした措置を取る権利はある。

 

 米国の目的は、(イランの核活動の規制が一定期間後に解除される核合意の)「サンセット条項」(の是正)だろうか。私は、これは小さなことで、真の目的ではないと考えている。(自身が00~03年に委員長を務めたフセイン政権の)イラクに対する国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)の際は、大量破壊兵器が焦点だった。だが、米国が考えていたのは体制転換だろう。トランプ政権は否定しているが、イランでも同じ事をしようとしている。

 

 米国とイランの対話を仲介する試みもあるが悲観的に見ている。湾岸の緊張緩和と地域安全保障の仕組みを立ち上げる道を探ることが必要だ。見通しは明るくないが、暗いわけでもない。トランプ氏は巨大な軍事力でしきりに示威行動をし、脅し上げている。しかし、戦争は欲していない。(イラク)戦争をする気になっていた当時のブッシュ政権とは違う。



 

© 全国新聞ネット 北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長(朝鮮中央通信=共同)

 

 北朝鮮も中東と同じで、地域安全保障の枠組みが必要だ。北朝鮮は大陸間弾道ミサイル(ICBM)のテストをやめ、寧辺の核施設廃棄を示唆した。これに対して米側は寧辺以外の全核施設を明らかにするよう求めたが、場所を明らかにすれば北朝鮮は生命線である施設を米国の攻撃にさらすことになり、十分な見返りがなければ応じられない。米大統領選までは大きな動きはないだろう。中国とロシアも北朝鮮の核戦力の解体も含めた長期的解決に積極姿勢を見せている。解決には北朝鮮に見返りを保証することも必要で、真の外交を求められることになる。

 

 核の恐怖の証人

 

 広島と長崎の被爆者は、核兵器の恐怖の証人だ。核軍縮の議論に非常に力強い役割を果たしてきた。ただ、核保有五大国の姿勢に直接影響を及ぼすには至っていないように思える。1980年代の大規模な反核運動も見られなくなったが、米国には有力なシンクタンクが多数ある。市民団体も米大統領選の候補者に一定の影響力を行使している。

 

 (米民主党の大統領候補指名を争っていた)エリザベス・ウォーレン上院議員は(敵の核攻撃がない限り核兵器を使わない)「核の先制不使用」政策の採用に前向きな考えを示していた。先制不使用政策(の採用)は非常に大きな価値のあることだ。ベトナム戦争を終わらせ、アフガニスタンへの関与をやめさせ、イラク戦争に反対した世論も残っている。

 

 原子力の再考

 

 米スリーマイルアイランド、東京電力福島第1原発、特にウクライナのチェルノブイリ原発事故の悲惨さはとてもよく分かっている。日本の人たちには賛否の分かれることだと思うが、二酸化炭素(C0)排出のことを念頭にすると、私は、原子力は有用だと考えている。人々は放射線への恐怖から(原子力に)手を出してはならないという気持ちになる。だが、頭脳で感情をコントロールしなければならないこともあり、私は原子力を前向きに捉えている。リスクは非常に減じられている。気候変動問題を考えれば、原子力の利用を考えて良いのだと思う。

  ×  ×  ×



 

© 全国新聞ネット 2020年2月26日撮影  ストックホルムの自宅で、インタビューに答えるハンス・ブリクス元IAEA事務局長(共同)

 

 ハンス・ブリクス氏 1928年、スウェーデンのウプサラ生まれ。同国外相を経て8197年、国際原子力機関(IAEA)事務局長。在任中、チェルノブイリ原発事故や北朝鮮の第1次核危機に対応。200003年には国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)委員長として、米英の侵攻直前までイラクでの大量破壊兵器査察活動を率いた。

 

世界は核使用の危険が高まって居るようですが?どこの国なのか。

 

「父つぁん」が懸念事案として北朝鮮が同じテーブルに座って対等にものが言える状況を作って北朝鮮が核の抑止力を取らないで、説得だけで抑えられるのか?北朝鮮の金正恩労働党委員長にとって従来の平常兵器でのバックアップでは対等な話し合いが出来ないと父親(金正日)が核所持体制を引いた核兵器開発では、北朝鮮は1993年と2003年にNPT脱退を表明し、2006年、2009年、2013年、20161月、20169月、2017年に核実験を実施した。また1998年のパキスタン核実験への関与疑惑、1993年以降の核弾頭運搬手段ともなりうるミサイル発射実験、第三国やテロリストへの核兵器技術移転の疑惑あるいは懸念も持たれている。

 

北朝鮮は機関誌の労働新聞にて2018223日に「私たちの共和国が核を放棄することを望むのは海の水が乾くのを待っているよりも愚かなこと」として核放棄を条件にするいかなる交渉の拒否を表明している


 

「俺っち」が心配する声も無視して、北朝鮮は世界の求める「北朝鮮の非核化」を相手にせず、アメリカによる韓国への核の傘撤回、最終的に在韓米軍の撤退を朝鮮半島の非核化と呼んで狙っている。彼らが交渉の手段をも変えてしまったことである。

 

世界は核使用の危険が高まって居るようですが?どこの国なのか。

抑止力を取らないで、説得だけで抑えられるのか?

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