2020年8月23日日曜日

さようなら、原宿旧駅舎 戦火乗り越え、96年の歴史に幕―24日解体開始・JR東

 若者の街と聞けば何処を思い浮かべますか?

当然原宿ですか?確かに若者が竹下通りや、野外で独特の派手な衣装でディスコサウンドに合わせて「ステップダンス」を踊るという風俗またはその参加者の総称の竹の子族が有りましたよね。

「竹の子族」の由来は諸説あるが、自作以外の衣装を昭和53年(1978年)に開業した「ブティック竹の子」で購入していたことが「竹の子族」の由来の一つと言われている。街頭や路上で若者グループが音楽に合わせてパフォーマンスを表現するブームの先駆けともいえる

この駅は駅北側(代々木駅寄り)の貨物線線路から分岐する形で設置されている、皇室専用駅も有るんです。

明治39年(190610月30日本鉄道の駅として開業。同時に貨物営業も開始。駅は現在位置より代々木駅寄りにあった。

二代目となる旧駅舎は大正13年(1924)に竣工した木造建築で、都内で現存する木造駅舎で最も古い。建物は二階建てで、尖塔付きの屋根に白い外壁、露出した骨組という特徴をもつイギリス調のハーフティンバー様式を用いられている。開業時は乗降客が少なかったが、大正8年(1919)に明治神宮が造営された後には発展を続けた。乗降客が増加した昭和4年(1929)には竹下口(当時の名称は坂下口、現在の表示は竹下改札)地下道、昭和14年(1939)には明治神宮側臨時プラットホームが設置されている。

正式な名称は原宿駅側部乗降場であるが、「北部乗降場」「北乗降場」「帝室御乗降場」などとも呼称され、大正天皇が宮城(きゅうじょう、皇居の旧称)から沼津御用邸葉山御用邸等へ静養に出発するための専用駅として設置された。宮廷ホームの通称でも知られる。設置以来、お召し列車の発着に使われ、平成25年(2013年)時点では財務省JR東日本の共同所有となっている。

今日の記事はこの原宿駅の建て替えに為ると言う事です。



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さようなら、原宿旧駅舎 戦火乗り越え、96年の歴史に幕―24日解体開始・JR東

https://www.jiji.com/jc/article?k=2020082200161&g=soc

時事ドットコムニュース>社会>さようなら、原宿旧駅舎



24日から解体工事が始まるJR原宿駅の旧駅舎=19日、東京都渋谷区

 「若者の聖地」東京・原宿のシンボルとして親しまれたJR山手線の原宿旧駅舎。大正末期に建てられた都内最古の木造駅舎は、戦火を乗り越え、今年3月に「引退」するまで時代の移り変わりや人々の行き交いを見詰め続けてきた。24日から解体工事が始まり、96年の歴史は静かに幕を閉じる。

 四方を向いた三角屋根、尖塔(せんとう)に立つ風見鶏。旧駅舎は、白壁に柱や梁(はり)をむき出しにした「ハーフティンバー」と呼ばれる西欧の建築様式で、1924(大正13)年に完成。1920年に創建された明治神宮の玄関口として利用された。

 当時の時代背景について、鉄道総合技術研究所(東京)の小野田滋担当部長は「郊外や自然を重視する田園都市思想が広がり、西洋の生活様式も庶民に浸透し始めた。牧歌的な外観の木造建築は人々に受け入れられやすかったのでは」と解説する。

 奇跡的なエピソードも残る。旧国鉄が編さんした「原宿駅のしおり」によると、戦時下の45年4月の空襲で約10発の焼夷(しょうい)弾が駅に直撃するも全て不発で焼失を免れた。一帯は焦土と化したが高度経済成長とともに復興を遂げ、64年の東京五輪では駅から徒歩約5分の国立代々木競技場が水泳などの競技会場となり、多くの国民が観戦に訪れた。

 やがて駅近くの車道が「歩行者天国(ホコ天)」として開放され、「竹の子族」や「ローラー族」といった若者が集まった。ファッション店やスイーツ店などがひしめく竹下通りや表参道エリアへのアクセス拠点ともなり、旧駅舎は街のシンボルであり続けた。

 そんな駅舎も老朽化が進み、今年3月、隣に建つ新駅舎にバトンタッチし営業を終えた。防火基準を満たしていないことから解体も決定。JR東日本によると、ステンドグラスなど創建当時から使われている部分もあるという。外観を再現した建物を解体後に建設予定で、旧駅舎の資材も使われる見込みだ。

 原宿で生まれ育った「原宿三丁目町会」会長の篠原東一さん(79)は「一つの時代が終わる感じがする」としんみり。「解体は寂しいが、同じ意匠の建物が残るのはありがたい。長い間お疲れさまでしたと言いたい」と話した。

東京オリンピックでは明治神宮に隣接する米軍居住地域だった「ワシントンハウス」跡地に選手村の代々木本村が設けられました。東西800m、南北1400m、敷地総面積は66万平方メートルに及び、5900人を収容する施設となりました。現在は、原宿駅が最寄り駅として代々木公園が多くの市民の憩いの場となっているほか、宿舎の一部が保存・展示されています。

「俺っち」がまだ居なかった56年前の昭和39年(1964年)東京オリンピックが開催されましたが、東京でも国際ストーク・マンデビル競技大会が2部構成で実施されています。

この時に日本人のマスコミがパラリンピックとつけた愛称がその後に正式名称となっています。

この後しばらくはオリンピックとパラリンピックが同じ開催都市で行われることはなくなっています。

記事の中に「〔写真特集〕懐かしの国鉄ローカル線」もリンクが張られて居たので続けて採り上げて於きます。



懐かしの国鉄ローカル線 写真特集

https://www.jiji.com/jc/d4?p=jnr330&d=d4_train

時事ドットコムニュース>写真特集>懐かしの国鉄ローカル線 写真特集



1/30 広尾線(北海道) 帯広-広尾 84.0キロ 1987年2月2日廃止

 広尾線の幸福駅=北海道帯広市(19870201日) 【時事通信社】



2/30 広尾線(北海道) 帯広-広尾 84.0キロ 1987年2月2日廃止

 広尾線最後の日に走る旅客列車=北海道帯広市の幸福駅(19870201日) 【時事通信社】



3/30 広尾線(北海道) 帯広-広尾 84.0キロ 1987年2月2日廃止

 広尾線の愛国駅=北海道帯広市(19870201日) 【時事通信社】



4/30 白糠線(北海道) 白糠-北進 33.1キロ 19831023日廃止

 国鉄赤字ローカル線廃止の第1号となった白糠線のお別れ列車=北海道白糠町(19831022日) 【時事通信社】



5/30 白糠線(北海道) 白糠-北進 33.1キロ 19831023日廃止

 国鉄赤字ローカル線廃止の第1号となった白糠線の「お別れ列車」=北海道白糠町の白糠駅(19831022日) 【時事通信社】



6/30 白糠線(北海道) 白糠-北進 33.1キロ 19831023日廃止

 白糠線の上茶路駅=北海道白糠町(198104月撮影) 【時事通信社】



7/30 白糠線(北海道) 白糠-北進 33.1キロ 19831023日廃止

 白糠線(撮影場所不明)(198104月撮影) 【時事通信社】



8/30 万字線(北海道) 志文-万字炭山 23.8キロ 1985年4月1日廃止

 万字線終着駅の万字炭山駅=北海道岩見沢市(198104月撮影) 【時事通信社】



9/30 万字線(北海道) 志文-万字炭山 23.8キロ 1985年4月1日廃止

 万字線終着駅の万字炭山駅=北海道岩見沢市(198104月撮影) 【時事通信社】



10/30 万字線(北海道) 志文-万字炭山 23.8キロ 1985年4月1日廃止

 石炭産業とともに消えていった国鉄万字線の万字炭山駅=北海道岩見沢市(撮影日不明) 【時事通信社】



11/30 黒石線(青森県) 川部-黒石 6.6キロ 198411月1日廃止(弘南鉄道黒石線に転換、1998年廃止)

 黒石線の黒石駅=青森県黒石市(198104月撮影) 【時事通信社】



12/30 丸森線(宮城県) 槻木-丸森 17.4キロ 1986年7月1日廃止(阿武隈急行に転換)

 終点丸森駅に到着した丸森線列車=宮城県丸森町(19810428日) 【時事通信社】



13/30 清水港線(静岡県) 清水-三保 8.3キロ 1984年4月1日廃止

 国鉄清水港線最後の日に走る旅客列車=静岡県清水市(現静岡市)(19840331日) 【時事通信社】



14/30 清水港線(静岡県) 清水-三保 8.3キロ 1984年4月1日廃止

 清水港線の巴川鉄橋(可動橋)を通過する1日1往復の混成列車=静岡県清水市(現静岡市)(198104月撮影) 【時事通信社】



15/30 清水港線(静岡県) 清水-三保 8.3キロ 1984年4月1日廃止

 清水港線の巴川鉄橋=静岡県清水市(現静岡市)(198104月撮影) 【時事通信社】



16/30 二俣線(静岡県) 掛川-新所原 67.7キロ 1987年3月15日廃止(天竜浜名湖鉄道に転換)

 掛川駅構内に掲げられた二俣線廃止を反対する横断幕=静岡県掛川市(198104月撮影) 【時事通信社】



17/30 二俣線(静岡県) 掛川-新所原 67.7キロ 1987年3月15日廃止(天竜浜名湖鉄道に転換)

 二俣線遠江森駅の乗降客=静岡県森町(198104月撮影) 【時事通信社】



18/30 若桜線(鳥取県) 郡家-若桜 19.2キロ 19871014日廃止(若桜鉄道に転換)

 若桜線を走る列車=鳥取県若桜町(198104月撮影)



19/30 若桜線(鳥取県) 郡家-若桜 19.2キロ 19871014日廃止(若桜鉄道に転換)

 閑散とした国鉄若桜駅待合室=鳥取県若桜町 【時事通信社】



20/30 倉吉線(鳥取県) 倉吉-山守 20.0キロ 1985年4月1日廃止

 田園を走る倉吉線上り列車=鳥取県(198104月撮影) 【時事通信社】



21/30 倉吉線(鳥取県) 倉吉-山守 20.0キロ 1985年4月1日廃止

 倉吉線の終着駅山守駅=鳥取県関金町(現倉吉市)(198104月撮影) 【時事通信社】



22/30 小松島線(徳島県) 中田-小松島 1.9キロ 1985年3月14日廃止

 中田駅-小松島港駅を行き来する小松島線=徳島県小松島市(198104月撮影) 【時事通信社】



23/30 添田線(福岡県) 香春-添田 12.1キロ 1985年4月1日廃止

 197779年、日本一の赤字ローカル線になった添田線=福岡県大任町の国鉄今任駅(19810414日) 【時事通信社】



24/30 勝田線(福岡県) 吉塚-筑前勝田 13.8キロ 1985年4月1日廃止

 吉塚-筑前勝田間を1日7往復し、博多駅に直結していた勝田線=福岡市の吉塚駅(198104月撮影) 【時事通信社】



25/30 勝田線(福岡県) 吉塚-筑前勝田 13.8キロ 1985年4月1日廃止

 勝田線を走る列車=福岡県宇美町(撮影日不明) 【時事通信社】



26/30 勝田線(福岡県) 吉塚-筑前勝田 13.8キロ 1985年4月1日廃止

 勝田線無人駅の上亀山駅=福岡市(198104月撮影) 【時事通信社】



27/30 宮原線(熊本、大分県) 恵良-肥後小国 26.6キロ 198412月1日廃止

 終点肥後小国駅前に掲げられた宮原線廃止反対を訴える看板=熊本県小国町(198104月撮影) 【時事通信社】



28/30 宮原線(熊本、大分県) 恵良-肥後小国 26.6キロ 198412月1日廃止

 宝泉寺温泉郷を走るディーゼル車=大分県九重町(198104月撮影) 【時事通信社】



29/30 妻線(宮崎県) 佐土原-杉安 19.3キロ 198412月1日廃止

 田園の中を走る妻線列車=宮崎県(19810423日) 【時事通信社】



30/30 妻線(宮崎県) 佐土原-杉安 19.3キロ 198412月1日廃止

 妻駅構内に立てられた廃止反対の看板=宮崎県西都市(19810423日) 【時事通信社】

フイルムカメラからデジタルカメラやスマホが普及してどこでも写真が撮れる時代に為って「撮り鉄」も数限りなく増えて、撮影ポイントを確保するためにマナーを考えない人が居る事はちょっと問題ですが、廃止される路線や新型車両が何時お目見えするのかの情報が良く判ると感心してしまいます。


「俺っち」に毎日声を掛けて呉れる人や横に為って居る時に手にしたスマホで写真を撮っている人も多い。

「撮り鉄」に嵌まっている人が、たまたま新型の出発に遭遇しても必ず、ネットで動画や写真が投稿される理由もスマホの普及が寄与しているのが原因です。

直ぐにスマホでネットに接続出来ますから。

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