世界の現実の大きなうねりの中、今の生活を何の憂いや考えも無く暮らしている我が日本!⁇、気が付けば連綿と過去の歴史の延長上に築かれて居る現実。当然他国との絡みがあって生活をして居ても過去を振り返る暇がないと言われますが、戦後既に四分の三世紀も経って若者世代に問うてもその戦争を学校で教わる事も無く?現在の「戦争が日米戦争」と言われることにどちらが勝った?との問いかけをする事ある位知らされて居ない。戦場に為った各地の国の住民の中にも其の時の状況を知りたいと動き出した人にスポットを当てた記事を見て、従来の生活基盤を辞して過去の第二次世界大戦の薄れゆく戦跡を掘り出す事にその後に人生を費やす事を決めて行く人を採り上げて居ます。
withnews 2019/09/21 07:00
私の故郷で日本軍は何をした? 「マレー作戦」職を捨ててまで追う理由 「鎖につながれたインド人兵士」
© The Asahi Shimbun Company 提供 日本軍がたてた石碑を調べるザフラニ・アルフィンさん(左)=2019年8月、染田屋竜太撮影=朝日新聞社
真珠湾攻撃の1時間前、日本軍が攻め込んだマレーシアで何が起きていたのか。「パールハーバー」に比べれば知られていない「マレー作戦」の歴史を、戦闘のあった故郷でたった1人で追い続けるマレーシア人がいます。「趣味」だった歴史のために、銀行員の仕事まで捨ててしまいました。なぜそこまで? 現地で聞いたのは「教科書を読んだだけで戦争なんてしちゃいけない、と本当に思えますか?」という重い問いでした。(朝日新聞ヤンゴン支局長兼アジア総局員・染田屋竜太)
5千人が上陸、50日でマレーシア占領
日本軍が上陸したのは、マレー半島東北海岸のコタバル。現地の時間で1941年12月8日午前1時過ぎでした。
当時、アメリカやイギリスなどによる「ABCD包囲網」により、石油などの物資が入らなくなっていた日本は、東南アジアを制圧することで資源確保をしようとしていました。
イギリスの植民地だったマレーシアですが、日本軍は50日あまりでマレーシアを占領。1942年2月にはシンガポールも占領しました。
「地元の人も、パールハーバーは知っていても自分たちの故郷で何があったか、知らない」と、旅行ガイド業のザフラニ・アルフィンさん(47)は話します。
コタバルで生まれ育ったザフラニさんは、日本軍の上陸作戦についても、学校で学んだ記憶があります。
「ただ、『歴史上の出来事』として教師から語られただけ。何があったのか、地元の人が何を思ったのか、説明してもらえなかった」といいます。
そんなザフラニさんが、歴史について「おかしいぞ」と思ったのは、高校生の頃でした。
図書館でたまたま見かけたコタバルの歴史が書かれた本でした。「トーチカ内で、インド人兵士は鎖につながれていた」
トーチカ(ピルボックス)とは、中から銃撃するためにつくられたコンクリート製の小さな建物で、敵の急襲に備え、イギリス軍が海岸沿いにたくさん準備していました。
当時、イギリスの植民地下だったインドの人たちも、イギリス軍と協力し、日本軍と戦っていたはず。
「なぜイギリス軍の陣地でインド兵が鎖につながれていたんだ?」
どうしても疑問をすっきりさせたくて、いろいろな本を調べると、少しずつ分かってきました。
「イギリスからの独立を目指していたインドの兵士たちは、イギリスに反抗心を持つ人もいて、イギリス軍はそれを押さえ込んでいた」
おそらく、逃げたり裏切ったりすることを恐れたイギリス軍がインド兵を拘束した……。
「歴史は教科書の中の『出来事』ではない」
歴史の裏側を見た気がして、さらに興味がわいたザフラニさんは、大学生になってからも手に入る資料をあさり始めました。
学校では、「日本軍の急襲でイギリス軍の多くが犠牲になり、地元のマレー人や華僑も苦しい生活を強いられた」としか教わっていませんでした。
日本軍の兵士の手記を翻訳してもらい、地元の人に話を聴いて回るようになりました。
自分で日本軍が上陸した海岸を歩いて砂を掘り返し、当時の銃弾やさびついた機関銃を拾い集めました。
「証拠や事実を集めれば、歴史が教科書の中の『出来事』ではないことがわかった」といいます。
20年以上にわたり集めてきた情報で、ザフラニさんは当時の様子を語ってくれました。
「深夜のコタバル海岸には、日本軍の船で3隊に分かれ、5千人を超える兵士たちが一気に上陸しようとしました」
「海岸にはイギリス軍が鉄条網のフェンスをつくっていましたが、日本軍の兵士たちは砂を掘って潜り込もうとしました」
「ただ、砂の中には地雷が埋められており、あちこちで爆発が起き、多くの兵士が犠牲になりました」
コタバルにある博物館には、当時の様子を描いた絵も展示されています。
「地元の人の話や資料をもとに私が監修して描いてもらいました」
背中を銃弾がかすめる 生き残りの証人
「当時の事を知っている人が、近くに住んでいます。会いにいきませんか」
ザフラニさんに誘われ、海岸から車で10分ほど離れた一軒家に住むオマール・ビンセニックさんを訪ねました。
御年92歳。車いすで、少し苦しそうに息をしています。
「最近、ぜんそくの症状が出て長くは話せないんです」とザフラニさん。
それでも、当時の事を少しずつ思い出してくれました。
「夜、インド兵士たちと夕食を食べて、音楽に合わせて踊っていたんだ」
「すると、ゴゴゴゴゴ、タンタンタンタンという音が突然聞こえてきた」
日本軍上陸の瞬間です。
「慌てて砂を掘ってそこに潜り込んだ。背中のすぐ上を銃弾が飛び越えていくような感覚があって、もうダメかと思った」
結局一晩を砂の中で過ごしたオマールさんは近くの家に逃げ込み、何とか命を取り留めました。
日本の占領後は、日本兵とも交流したといいます。突然、歌を歌い始めました。
「これは、日本兵に教えてもらったんだ」といいます。
「私は特に日本兵からひどいことをされた記憶はない。ただ、イギリス兵を処刑したり、現地の人に女性を差し出すように求めた日本兵もいた」
オマールさんは、「日本に強い恨みを抱いているわけではない。ただ、戦争はいけない。みんながつらい思いをする」
「3年前はオマールさんももっとたくさん話していた。段々、当時を知る人の証言が減っていってしまう」とザフラニさんは眉をしかめて話しました。
「海岸に行ってみませんか」とザフラニさんに言われました。
まさに日本軍が上陸した海岸に立つと、背筋がぞわっとするような感覚になりました。
78年前、この場所で殺し合いが起き、多くの人が亡くなった。何も知らなければ単なる静かなビーチだな、としか思えないでしょう。
人もおらず、白い砂だけが続く砂浜が、まったく違ったものに見えた気がしました。
歴史追って収入は半分に 「でも、幸せ」
「もう一カ所、連れていきたい場所があります」海岸沿いを車で約20分走り、森に入りました。
「ここです」とザフラニさんが指し示す場所には、直径5メートルほど、土がえぐられたような穴がありました。
「日本の爆撃機が爆弾を落とした場所です」
すぐには信じられませんでした。80年近く前の爆撃跡が今も残っているなんて。
「この場所はずっと誰にも手をつけられず残されてきました。だから、今でもこうやって当時残されたものを確認できるんです」
穴の中心部からは10メートル以上成長した木がそびえ、過ぎた時間を示していました。
そして、案内されたのは、コタバル中心部から約35キロ南に下ったマチャンという小さな町です。
小学校の隅に、日本語が書かれた石碑が建てられていました
「戦跡記念碑」と書かれています。日本軍がこの場所を占領したとき、犠牲になった人たちのためにつくったといいます。
「地元の人は日本、当時の日本軍にどんな感情を持っているんですか」ときいてみました。
「いろいろです。特に中華系の人は恨みを持っている人もいる。ただ、住民に憎しみしかないのなら、日本語の石碑なんてとっくに壊されているんじゃないでしょうか」
ザフラニさんはどう思っているのだろう。
「誰が悪いとか責任があるということを議論する気はないです。何があったのかを証拠や証言に基づいて残すことが、私の役目です」
ずっと歴史を追い続けてきたザフラニさんですが、昨年、20年働き続けた銀行員を辞めました。
「仕事の合間にやるには歴史は重すぎる。ここで決心して一生をつぎ込もうと思った」
収入は半分以下に。「独身だからなんとかやっていけています」と笑います。
興味や使命感を超えた熱
だが、彼1人がそこまでしなければいけないんでしょうか。
「オマールさんが話せなくなったら、誰があの経験を次の世代に伝えていくのでしょう」とアリフィンさんは言います。
「森の中にまだ爆撃跡が残っているのも、貴重と言えば貴重だが、それだけ誰も興味を持っていないということ。地元で何があったかおざなりにされているのは、かなしくてたまりません」
コタバルは観光地でもなく、数少ない欧米人の観光客も、戦跡を見にいくことはほとんどないと思います。
「教科書を読んだだけで戦争なんてしちゃいけない、と本当に思えますか。実際に戦場になった場所の土を踏んだり、弾丸を見たりするから、現実的に感じられると信じている」
ザフラニさんは、マレーシアの首都クアラルンプールにいる仲間らと歴史同好会をつくり、マレー半島であったことを伝え続けています。
この会で代表を務めるシャハロン・アフマドさんは、「ザフラニのような人がいるから、戦争の姿が伝えられていく」と話します。
会には、「日本人がたくさんのマレー人を殺した」といった意見が多く寄せられると言います。
シャハロンさんは、「私たちは必ず、『どういう証拠や事実に基づいているのですか』ときいています。これは日本を擁護するためではない。ファクトに基づいた歴史を残すためです」
ザフラニさんたちは若い人たちに歴史を伝えるとき、日本軍の軍服を着て説明することもあるといいます。
「中華系の人たちから『不謹慎だ』と批判されることもある。でも、私は真剣だ。歴史を感じて、わかってもらうためにどうすればいいか、必死で考えている」
ザフラニさんは一緒にいた3日間、止まることなく歴史についてしゃべり続けていました。
そこには、単なる興味や使命感を超えた、ものすごい熱を感じました。
「是非、日本の人にもコタバルを訪れてほしい。そして80年前に起きたことに思いをはせてほしい。国を超えてみんなで伝えていくことが、歴史だと思う」
この話題は隠された歴史を探す事であり、今後の世代に考える資料として提示する事に他ならない。誰でも戦争をしたいとは思わないし、忌み嫌って避けてしまうが、事実として受け入れながら戦争を避ける方策を考えて欲しい。永世中立のスイスも戦争をしない事を国是として戦争に巻き込まれない様に国民皆兵を取り込んで各家庭に武器を持つようにしている。何故か?武力侵攻を阻止するために持てる最低限排除するための軍事武力を保持する。他国からの軍事的脅威に遭えば、如何なる同盟国にも頼らず、自国の軍隊のみで解決することを意味する。すなわち、『どのような戦争に対しても「かならず/固定的に」中立の立場を採る国家』という意味である。日本語訳の「永世」のような『永遠に』『これから先もずっと』という意味合いは、全く持っていない。
よって、状況によっては「永世中立」を一方的に放棄することも可能であり、実際に放棄された事例もある。このため、スイスの様にスイス軍の強力な国防政策を採る国家もある(武装中立)。いわゆる「平和主義」や「非暴力非武装」や「無防備都市宣言」とは、全く概念・理念が異なるものであるとされる。そのスイスの人口を知って居ますか?少子化に向かう日本は世界10番目の1億2千万人強、かく言うスイスは世界で93番目で東京都の人口の1千4万人弱の半分以下の男子と同じ位の8百30万人ほどの国ですよ。
日本のリベラルとされる人々が平和憲法と今の日本国憲法の護憲?をしきりに言う事が理解できません‼
拡張主義に邁進する彼の国が内政干渉を認めない諸国の内の中國が今回の国連で一般演説に米国のトランプ大統領の想定される内容にウイグル自治区の人権問題に触れる見込みが記事として新聞に報告されて居ました。本当に中國の言う通り「テロ対策」として国際社会は容認できるのでしょうか?中部太平洋のキリバスや南太平洋のソロモンが国交樹立。台湾は中國の一部と世界に押し付ける事を、香港でも今もデモって居ますが根は同根の中國の管理社会で国民の抑圧をする事で覇権を拡大することに他ならない。その様な国の危険が存在して居るのに日本が中立を囲って居る訳には行きませんよ?有り得ない義理と安全地帯を覚えて居る事への驚愕する事例紹介であったけれど、どこぞの国は義理も安全保障も中国相手に頑張ればる事が出来るのか?とても出来るとは思えません。日本自治区に為ったら、なったで日本の反日リベラル連中が世界に助けを求める事が出来るのか、多分求めないでしょうね。彼らは中国共産党の社会の完成を押し進めているのだから?
自由に動ける「俺っち」には、想像できないけれど、そうなれば国連の監視対象国にして、安全保障理事国の5大国の拒否権を剥奪して中國を対外封鎖出来るのでしょうか?‼世界が声を挙げ続ける限り中國の覇権を阻止し時間を掛けて行く事が共産党の野望が維持できず崩壊をして行く。歴代の米国政権が援助をして中國が自由世界に与するだろうと騙されて居た事が判りトランプ大統領の米中経済戦争の政策が自由世界の為政者に判って来たのかも知れません。
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