討ち入り前、大石内蔵助の書状見つかる 妻りく懐妊、義父に帰郷日程相談
© Copyright(C) 2019 神戸新聞社 All Rights Reserved. 大石内蔵助が妻りくの父に宛てた書状。署名や花押が残る=赤穂市上仮屋、赤穂市立歴史博物館
赤穂義士が吉良上野介(こうずけのすけ)邸に討ち入る約11カ月前、大石内蔵助(くらのすけ)が京都・山科に隠せいしていた時期に妻りくの父に宛てた書状が見つかった。りくの懐妊が分かり、兵庫・豊岡の実家に帰す日程を相談しており、討ち入りに至る過程の裏側を示す内容。赤穂市立歴史博物館(兵庫県赤穂市)が入手し、12月13日~来年2月4日に開く開館30周年記念の特別展「元禄赤穂事件展」で公開する。(坂本 勝)
書状は元禄15(1702)年1月27日の日付で、りくの父で豊岡藩京極家の筆頭家老だった石束源五兵衛宛て。「大石内蔵介」の署名と花押が残る。本紙は縦約15センチ、横約248センチ。
赤穂藩が改易になった後、浪人として山科に仮住まいしていた内蔵助は、討ち入りを決行した場合、家族に累が及ぶことを心配し、妻子らを実家へ戻すことを決めたとされる。書状では、りくが身ごもっていることが分かったと記述。出産予定日が7月ごろのため、2、3ヶ月以内に豊岡に向かわせなければならないなどと相談している。豊岡に帰すことは召し使いにも口外していないが、大坂(大阪)で最近評判になっていて驚いたとも記している。
書状は湊川神社(神戸市中央区)の元禰宜(ねぎ)で義士研究家だった故林尚右(なおすけ)氏が著書「大石内蔵助秘話」で1992年に紹介したが、「原文は散逸」とされていた。同館は京都の古書店が売りに出していると知って取り寄せ、内蔵助の自筆であることを確認した。
同館の木曽こころ学芸員は「りくは三男の大三郎を身ごもっており、内蔵助の気遣いが書中にうかがえる。赤穂事件の裏側を知ることのできる貴重な史料だ」と話す。
特別展では、内蔵助が討ち入りの前日に心情をつづり、徳島藩の親戚に宛てた手紙も出展される。
この事実は以前には義士研究家の今は亡き林
尚右氏が彼の著書に於いて1992年に紹介されて居たとされて居るのを聞いても管理が上手くなかった様です。この事例から過去に於いて研究途中の資料で有る物が、再度、あるいは引き継いで研究者が調べる時に見つからないと言う事が有るのかも知れませんね?
この手紙が京都の古書店で見つかったと言う事で27年もの間心無い人に流れなかった事に良かったと思います。まだまだ古書店や民間のお蔵に埋もれている資料が有ると思います。
大石内蔵助の「遺書」公開 徳島、討ち入り前日に記す
© KYODONEWS 大石内蔵助が討ち入り前日に心情をつづった手紙。「十二月十三日」の日付が記されている
「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助が討ち入り前日に心情をつづった手紙が残されていることが分かった。遺書に当たる「いとま乞い状」で、3日から徳島城博物館で展示される。1955年ごろに東京などで展示されていたが、その後、所在が分からなくなっていた。
手紙は縦約17センチ、横約75センチ。日付は討ち入り前日の元禄15(1702)年12月13日付だった。徳島藩家老の子で、浪人中の大石に資金援助した三尾豁悟宛てだった。
手紙には、討ち入りの経緯や決意が記され「吉良邸に討ち入ることになった。志のある48人が妻子や親類の後難を顧みず、あだ討ちを行う所存」との記述もある。
次の話題は同じ手紙でも「本能寺の変」が有った後の8日後に、織田方の武将に宛てた直筆の書状が昨年の11月16日に、新潟県新発田市で見つかった。勝家は光秀の動向を把握しておらず、調査した三重大の藤田達生教授は「勝家が光秀討伐で後れを取った理由の解明につながる貴重な発見」としている。
この様に直筆の手紙が見つかると言う事は有り得ない事では無い。この様にして当時の様子が明らかに為って行く。歴史認識の変更が徐々にハッキリして来るが、それに引き換え近年の韓国や中國のトンデモない嘘の事実関係や史実に当らない歪曲した戦争の嘘や義理と自国の勝手な理屈で日本を貶める安全地帯を覚えて居る事への驚愕する事例紹介であったけれど、どこぞの国は義理も安全保障も中国や韓国の慰安婦・応募工問題にはうんざりする。国際社会の無理解に日本もしっかりした資料で反論して行かなければ為らない。嘘で歴史がさも事実で有るかの様に為るのに日本の政治家にも、特に外務省のこの様な対応が判らない!
自由に動ける「俺っち」には、想像できないけれど、そうなれば国連の声が大きい国の意見や日本の反日組織も国連や国内でのさばらせる事が理解できない!
共同通信社 2018/11/16 21:10
勝家「本能寺の変」直後の書状 光秀の動向つかめず、討伐で後れ
© KYODONEWS 柴田勝家が溝口半左衛門に宛てた書状(冨沢信明新潟大名誉教授提供、書状の一部をモザイク加工しています)
織田信長の重臣、柴田勝家が、明智光秀に信長が討たれた「本能寺の変」の8日後に、織田方の武将に宛てた直筆の書状が16日までに、新潟県新発田市で見つかった。勝家は光秀の動向を把握しておらず、調査した三重大の藤田達生教授は「勝家が光秀討伐で後れを取った理由の解明につながる貴重な発見」としている。
書状は本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、現在の福井市の居城にいた勝家が織田方の溝口半左衛門宛てに書いた。新発田市の溝口家に伝わる資料から発見された。
書状は光秀が拠点の近江(現在の滋賀県)にいるとみて、丹羽長秀と連携して討伐する計画を記しているという。
自由に動ける「俺っち」には、古書店めぐりが出来ないけれど、お蔵の中に埋もれて居るビックリする様な手紙や、資料を探す事がなかなか難しい。想像できないけれど、そうなれば国民には古文書を見ても何の関係が有るのか判らないので専門の博物館や研究者の学芸員に見て貰う事が出来れば良いのだが。
外務官僚や政治家、国民と我らが猫族の感性は人様の母親の感性に近いのかな、反日連中を政治家と同じ様に受け入れて居る様に見えるよ。しかも反日勢力の頭の中は「俺っち」達の肉球と同じ様にぷにょぷにょだからね。韓国や中國のプロパガンダ資金が半端じゃ無い中、海外に居る日本人が一番頑張って居るのに、国内も政治家もさらに日本の声を一番出さなければいけない外務省の反論の声やそれらに対して敵対国を反撃する運動に国としての彼らに擁護(資金援助も無し!)すらして居ない。
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